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下町労働運動史 65

2017/01/01
下町ユニオンニュース 2017年1月号より

戦前の下町労働史 その二八    小 畑 精 武
 
 地下鉄争議・もぐらのうた・中

 警視庁が調停に入って解決した一九二八年、会社は労務対策として社内の相互扶助組織・茶話会をつくります。一九三〇年には市電の労働者が変装して「労働時間は六時間、最低賃金を二円にしろ」というガリ版ビラを改札に置いていきました。会社はあわてて「市電はストがある。ストをやる奴はバカだ。全線開通したら社宅も建てるからつまらない扇動にのらないように」と非番を集めて訓示を述べました。しかし、みんなはかえって、会社が儲けていること、ストを怖がっていることを知ったのです。

 全協オルグとの連絡
 一九三一年共産党の指導下にあった日本交通運輸労組のオルガナイザー永田耀は地下鉄の組織づくりを始めました。後に分会長になる津野勇の家を訪ね、職場の状況を聞きます。茶話会への不満から自分たちで委員を出して、目標を「スポーツ道具の購入費を会社は補助しろ」にします。同時に、うどん会ができていきます。うどん会は寄宿舎入寮者をうどんで歓迎する会が出発点です。徴兵制の軍隊から除隊したうどん好きな相良が参加していました。

バラバラな賃金
 軍隊から戻った運転手の相良の賃金は一円四〇銭が一円一五銭に下がっていました。
彼より後輩が一円三五銭と賃金は人によってバラバラだったのです。
三〇年九月の神田駅開通を目前に、浅草駅~万世橋駅往復を二五分から二〇分にする指示が出されます。そのためには、本勤務一四回を二〇回に、予備勤務十二~三回が十八回になり、労働強化です。「これでは身が持たない」と病人が続出、不満が高まっていきます。地下は日光がなく、湿気、ほこりが多く健康を害する労働者が増え、解雇も出ました。駅入り口の煙草売店には女性が十一時間労働で採用されたものの、経営がストアーに移され予告なしに解雇されました。
地下鉄争議記事
女子社員の採用、便所がない
浅草駅で地下鉄と東武鉄道が連絡する切符の販売が始まり、途中駅の小さなボックスで販売する女性社員を七人採用。労働時間は朝六時から夜十一時まで、翌日は休み。もう一人は朝九時から夜八時までの食事、休憩の交代係。「一日おきの仕事で休める」と思ったものの、ムッとした空気とガンガン響く電車の音の中、朝から夜中までの労働で体調を崩す労働者がでてきます。
さらに一日一円の給料が九〇銭しかありません。ストアーが七〇銭だから少し待ってくれとの会社の言い訳に声を出して反対はできなかったのです。便所が一つもなく松屋に駆け込み。とくに生理の時は大変でした。
 こうした職場環境の中には多くの「要求」がありました。寄宿舎にも「ガス、水道をつけて」「枕を一つずつ」「部屋を増やして」などの要求があり、室長をつくって交渉にあたり要求を順次獲得することができました。

  組合の結成
 一九三一年十二月、茶話会の役員選挙、うどん会の活動などの討議のために、津野は永田オルグと相談して、組合分会を十二名で結成します。分会責任者に津野、常任委員三人には運転手・車掌・駅員、会計など決め、共産党、共産青年同盟、赤色救援会の支持も全員で承認しています。
続いて女子分会が五人で発足、二人が地下鉄分会の常任になります。更衣室、休憩室が女子にない、一番切実な要求は便所問題です。基本的人権の問題です。売上金不足の時は弁償をしなければならない問題もあります。
職場のより多くの労働者が参加し日常活動をすすめる工場委員会の方針に沿って、地下鉄では従業員クラブを方針化します。同時に「大衆と結びつくサークル活動」を野球、映画、観劇、ピクニックにより進めました。
地下鉄大争議の始まりです。
(次号・下に続く)
【参考】 「もぐらのうた‐1932年東京地下鉄争議記録集」学習の友社一九八七年
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働くもののいのちと健康を守る労働行政を!東京労働局との交渉報告

2016/12/05
下町ユニオンニュース2016年132月号より

 11月1日(金)午後、九段合同庁舎の会議室で東京労働局との交渉を行いました。交渉には下町ユニオンをはじめ労働組合、NPO、被災者団体の仲間30名が参加しました。

■急増する建設現場での労災防止対策を

 東京では建設現場での死亡・重傷災害が増加しています。2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催や東日本大震災の工事も相まって技能労働者が不足し、労働災害の増加か懸念されます。昨年6月に東京労働局が実施した都内360の建設工事現場の一斉監督では、6割以上の226事業場に労働安全衛生法違反がありました。政府は今後、人手不足を外国人技能実習生や外国人就労者を活用して補おうとしています。昨年7月に安全衛生規則が改正され、建設工事現場での足場の組立て作業の特別教育の実施が義務付けられましたが、外国人労働者向けのものはありません。安全課に質問しても回答できませんでした。工事現場での墜落・転落は死亡災害に直結します。監督指導の強化とともに外国人労働者に対する安全教育の徹底を要請しました。

■長時間労働の削減と過労死防止対策を

 電通の髙橋まつりさんが過労とパワハラで自死に追い込まれました。企業責任はもとより国の長時間労働削減と過労死防止対策が厳しく問われています。
 交渉では時間外労働時間を1か月80時間ではなく45時間以内に削減すること、36協定の届出と「時間労働時間の上限基準」の遵守はもとより、「特別条項付き36協定」で事実上無制限に長時間労働を許容している実態を是正するために厳しい監督指導を求めました。
 監督課は長時間労働の削減が最重点課題であり、時間外労働を45時間以内になるよう事業所への監督指導を強化すると答えました。使用者に対し、1か月の時間外労働の上限規制と勤務間インターバル規制を法律で義務付けることが必要です。監督課は私たちの要請を本省に上申すると回答しました。
■介護労働者の結核・疥癬の感染症予防を

 今年、江戸川、亀戸、向島各労基署との交渉で、昨年度、結核感染による労災認定が2件、3件、6件、また疥癬が7件、0件、5件出ていることが分かりました。福祉施設の介護労働者の腰痛対策や感染症予防対策の徹底を要請しました。

東京労働安全衛生センター 飯田勝泰

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公開学習会 『安心して働き続けたい - 活かそう労働契約法!』 開催

2016/12/05
 例年11月にホットラインと合わせて公開学習会を開催しています。今年は10月27日、江戸川区タワーホール船堀で、日本労働弁護団事務局長の嶋﨑量(しまさき ちから)弁護士に講師をお願いして、労働契約法の有期労働契約に関する18条、19条、20条について学習しました。東京都労働相談情報センター亀戸事務所の助成を受けての共催です。
 18条は、同一使用者との間の有期労働契約を更新して通算5年の規約期間を超えると、無期契約転換の申込みができ、申込みをすれば使用者は申込みを承諾したものとみなす。転換後の労働条件は有期契約と同一の労働条件が原則。2013年4月1日以降に締結した有期労働契約からなので、1年を越える労働契約以外は2018年4月以降の契約更新時に無期転換申込権の行使ができるようになります。あくまで労働者からの申込みによるもので5年になれば自動的に無期契約にみなされるわけではありません。また規約期間が無期になるだけで、待遇が「正社員」と同じになるわけでもありません。その点に注意が必要です。
 経営者は違法、脱法的なやり方でこの無期転換をさせないようにすることが予想されます。気に入らない労働者に対しては5年になる前に「雇い止め」にしようとしてきます。
 例えば、「この契約で更新せず終了する」とした「不更新条項」を入れた契約書にサインを迫るなど考えられます。このような場合、まずその時点でユニオンに相談してもらう事が大事です。労働者側としては19条〈「雇い止め法理」の法定化〉で闘うことができますが、単純にその契約書に「サインしない」と言うだけではうまくいかないことが予測されるからです。。

2016-11労働契約法学習会

 こうした雇い止め対策や無期転換の申込みをするにしてもユニオンのサポートは重要です。また転換後の労働条件も原則は変わらないとなるとパートやアルバイトの低処遇が続くということになります。ここでも無期転換をして安定した雇用になってからの待遇改善をしていくためにユニオン(労働組合)の果たす役割は大きいです。
 20条は、有期労働契約を理由とした不合理な格差を禁止することを定めました。すでにフルタイムの有期雇用労働者が不合理な格差であると賃金の手当、賞与や退職金など正社員との差額の支払を求めて裁判がいくつか始まり地裁や高裁での判決も出てきています。こちらもユニオンの役割が重要です。
 労働契約法の周知と宣伝、職場の点検、有期雇用労働者は雇い止めの不安から一人ではなかなか闘えないのでユニオンがサポートすることが必要不可欠です。
 非正社員の割合は約4割になろうとしています。そのほとんどが有期雇用という雇用不安と差別的な低処遇にあります。労働契約法を活かして権利を守る運動を進めていきましょう。
00:00 有期雇用 | コメント(0) | トラックバック(0)

下町労働運動史 64

2016/12/03
下町ユニオンニュース 2016年12月号より

戦前の下町労働史 その二七   小畑精武
 
もぐらのうた・上
 東京地下鉄の争議・前史

日本最初の地下鉄は一九二七年一二月二〇日、上野と浅草間のわずか二・二キロメートルが開通しました。現場従業員はわずか五〇数名のスタートでした。
地下鉄の計画は山梨県生まれの早川徳次が同郷の根津嘉一郎(東武鉄道の創始者)の協力を得て、一九二五年九月に起工。地表から掘って切り開く開削工法ですべて人海戦術でした。
開通の半年前に、会社は根津と早川の郷里である山梨県内で労働者の募集を行い、農家の子弟三〇〇人ほどが応募、高等小学校卒業程度の試験と口頭試問により、一七~三〇歳の男性三三人が採用されます。
会社は近くに寮として普通の家を借り、五班に分けられました。初日は明治神宮を参拝し社長の話を聞きました。二日目からは、講義と実習で日給一円が支給されました。学科は七月から車両、信号、軌道、電気、運転。実習は一〇月から入り、省線(国電)蒲田車庫で朝八時から夕方五時まで運転練習を二十日間、二一日からは原町田と東神奈川の間で試運転教習をしています。車掌は実習のため省線の各線に配置されました。
もぐらのうた

十一月には地下鉄車両が入り(地下鉄はどこから地下に入るのでしょうか?)、毎日車両みがき、雑巾がけ、変電所の磨き掃除、砂利かつぎ、夜の警備巡回まで大変でした。
 開業する一二月からは上野と稲荷町間で試運転、車掌はドアエンジンの訓練。一七日には教習所の卒業式を迎え、会社規約厳守の宣誓式も行いました。給料も決まります。
 運転手 日給一円六〇銭~一円七〇銭
 車 掌 日給一円五銭~一円六銭
 募集広告より一〇銭安いことに不平が生じます。地下労働は非衛生的、過労も加わり目が見えなくなる労働者も出てきました。会社は舎監と置き「泉の花」という修養冊子を持ち込んで問題のすり替えを行いました。
 
 一日一三時間の超長時間労働
休暇は一〇日に一回、労働時間は午前出が午前六時から午後三時に残業五時間が加わり午後八時まで、午後出は午後三時から翌日の午前〇時に午前一〇時からの早出で加わり、一日一三時間の超長時間労働です。
開通の翌年一九二八年三月、運転手一二,三人が以下の嘆願書を会社に出します。
①初任給が新聞広告より一〇銭安い
②運転手、車掌共日給に差があること
③衛生設備が悪く、詰所もないこと、等
会社からの返事はありません。一二月に以下の再び嘆願書を提出。
①一〇日に一回の公休を六日に一回に
②勤務時間を六時間に(一〇時間を)
③詰所(きたない)の改善を。
④隧道(トンネル)に散水を(ホコリが多い)
⑤青服(軍服を思わせる)を撤廃し普通の詰襟に。
今回は車掌も参加、終車後寄宿舎に集まり、翌朝要求書として提出、返事がなければサボタージュに入ることを申し合わせました。

 サボタージュへ突入
翌朝、会社に要求書を提出します。しかし要領をえない返事。午後からサボタージュに突入、通常なら五分の上野―浅草間を三〇分くらいかけての運転です。会社は本社から運転できる社員を派遣してハンドルを取り上げて対抗。運転手たちは寄宿舎に引上げ籠城。会社は運転手一二人に解雇を通告。残りの七人には切り崩し攻撃がかけられ分裂状態に。
そこへ警視庁の調停官が現れ、八時間労働と残業一割増、公休八日に一日、慰労金などにより急転直下和解へ。しかし、被解雇者一二名のうち四人は復職ができず、毎日荒れる生活となり分裂状態に陥り、停滞を余儀なくされました。しかし、職場での「活動」は続き、地下鉄争議の灯が灯ります。
(次号・下に続く)
【参考】「もぐらのうた‐1932年東京地下鉄争議記録集」学習の友社一九八七年
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下町労働運動史 63

2016/10/30
下町ユニオンニュース 2016年11月号より

戦前の下町労働史 その二六  小畑精武
 
保育所をつくり働く
亀戸に「無産者託児所」鈴木俊子
 先日墨田レイバー・ウォークの下調べに賀川豊彦ゆかりの「光の園保育学校」に行きました。「保育学校」は保育士の学校かと誤解しましたがれっきとした保育園でした。
 関東大震災後に柳島(墨田区)にできた東大セツルメントには託児所が開設されました。下町は貧しい人々が多く、共働きがあたり前でした。しかし公立の保育園、託児所は少なく「江東に生きた女性たち」には地域がつくった託児所、保育園が紹介されています。
 一九三〇年の東洋モスリン争議後に江東地区では次々と保育園が女性の手でつくられていきました。三二年には亀戸一丁目、五の橋そばに「無産者託児所」が鈴木俊子たちの手で設立されます。
生活が破壊された「昭和恐慌」下で「どんなに苦しくても子どもだけは正しく丈夫に育てたい」という願いがこめられました。設立準備会には、教育団体、労働組合、文化団体から、羽仁説子、大宅壮一など約五〇人が参加。鈴木俊子は主任保母に。夫は戦後の日本国憲法に大きな影響を与え、映画「日本の青い空」の主人公鈴木安蔵です。       
開所後は住み着いて働いたそうです。
2011-11
 亀戸一丁目の長屋に住み賛育会で長男を生んだ松田解子はこの無産者託児所に子どもを預け、一個二銭の内職をしながら、出産の様子を小説にして「読売新聞」の懸賞でみごと入選をはたしました。松田解子は一九三二年の米よこせ闘争を「回想の森」に「女性線」には江東の労働者の生活を描いてます。

「子供の村保育園」平田のぶ

 一九三一年には、平田のぶが建設間もない白河三丁目(江東区)同潤会アパートの一室を借りて「子どもたちを地域のなかで生き生きと自由に育てたい」と「子供の村保育園」を設立します。
 平田のぶは、広島で教師を経験、上京後は池袋で児童の村小学校の教師、教育雑誌の編集、消費組合運動、婦選運動にかかわりました。自分の子を亡くす体験、児童の村の経験を活かして、子どもの自主性を大事にする保育園づくりをすすめます。
母様学校や父様学校をつくって子ども社会だけではなく社会全般から自治の精神を考える場づくりもすすめました。空襲で焼けたあとは青空保育を続けたそうです。

「二葉保育園深川母の家」 
 江東区には海辺でないのに「海辺町」があります。昔は海辺だったのでしょう。そこに「二葉保育園深川母の家」が一九三五年に設立されます。
 母の家は「其の行きづまりは死か堕落か」と切羽詰った母子のシェルターとして、四谷にある二葉保育園の徳永園長が友人の援助を得て、深川区海辺町に設立したものです。
 施設長となった原藤英子は、親身になって母親たちに仕事をあっ旋します。早朝からの市場での仕入れと仕出し弁当づくりや家政婦の仕事、子どもたちは学校や保育室に。夫に死なれ長野から娘二人を連れて住み込んで働く母親、娘が保育園で働くようになった例もあります。
 三月一〇日の東京大空襲で丸焼けになり、原藤施設長はじめ、職員五名、母子一六名が犠牲となりました。

 朝五時から午後六時までの保育
 工場内での託児所、保育所に加えて隣保館にも託児所があって、保母はそこで寝起きしました。公立託児所は一九二三年以降富川町、古石場などに設立されますが、保育は母親の仕事に合わせ長時間労働でした。虚弱児童を君津や谷津に転住させ、体重を増やすことも行いました。
 無産者託児所は弾圧を受け、開設二~三年後に閉鎖を余儀なくされました。

【参考】「江東に生きた女性たち‐水彩のまちの近代」江東区女性史編集委員会 一九九九
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