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下町労働運動史62

2016/09/30
下町ユニオンニュース 2016年10月号より

戦前の下町労働史 その二五      小 畑 精 武

 「華やかな女性の憤慨」
松竹レビューガールの不満爆発

 「あたし達の部屋は南京虫としらみと、のみの巣だヮ」「鮭と沢あんばっかりの弁当じゃ栄養カロリーが不足だヮ」「月給と舞台手当を合わせてもおしろい代はおろか電車賃にだって足りないのよ」一九三三年六月、華やかな舞台でレビューを踊る若い女性たちが待遇の悪さに不満の声をあげました。
 松竹座は浅草国際劇場があった所、今は浅草ビューホテルになっています。(太平洋戦争中には風船爆弾の製造工場となり、東京大空襲時に爆弾が投下され、戦後解体時にはグニヤと曲がった鉄骨が屋根裏に残っていました。「再び許すな東京大空襲!下町反戦平和の集い実行委員会」は被爆鉄骨の保存を求め、現在両国の江戸東京博物館に展示されている)
 決起した争議団委員長は「男装の麗人」といわれた水ノ江瀧子。(戦後NHKテレビでジャスチャーの番組に出ていたのを覚えています。)
 ことの発端は、松竹座の音楽部員(楽士)三〇名が「不当解雇反対」「減給反対」の争議に入り交渉中に、自分達もと立ち上がったのです。


トイレ改善、定期昇給を嘆願
 水ノ江瀧子、吉川、小倉のスター以外にも当時の踊り子二三〇人(歌劇部)が参加。二つしかないトイレや低賃金に対し、「退職金の支給」「定期昇給の実施」「最低賃金制の制定」「衛生設備・休憩室の改造」「公休日・月給日の制定」などの要求を嘆願書にまとめて音楽部員と共に六月一四日に松竹本社に提出しました。
この頃、関東大震災の後に「エログロナンセンス」の時代が到来し、女性の足を見せるレビューの人気が高まっていました。しかし、水の江、吉川、小倉のようなスターでさえ、月給八〇円から一〇〇円、一般の踊り子(女生徒、レビューガール)はわずか一〇円~二〇円程度でした。研究生になっても半年は無給だったのです。当時の巡査の初任給は四五円でしたからお話にならない低賃金!
 しかし、会社は一部を認めたものの音楽部と歌劇団との分断をはかり、一六日からはロックアウトに。これに対して争議団はストライキで対抗しました。
スターが先頭に立った争議への支援は全国に広がります。争議団の演説会にはファンが大挙押しかけ、資金カンパや激励の手紙もあいつぎ、歌劇団の父兄会、後援会、同時期の東洋モスリンと同じ全国労働組合同盟系の労組も支援しました。

松竹は水の江瀧子を解雇
 争議は長期化し、松竹は水の江を含む数人を解雇しました。さらに、歌劇部を解散して会社直属の少女歌劇団の設立をはかり、歌劇団の切り崩しをはかります。水の江たちは七月一日から湯河原温泉に貸別荘を借りて立てこもり。ここにもファンがお菓子やうどんを差し入れに。これまで休暇が取れなかったのでピクニック気分を楽しみました。

 全員の職場復帰を勝ちとる
 しかし、水の江は女優の原泉(作家中野重治の妻)とともに七月一二日に思想犯として特高に検挙され警察署に留置されます。ここでも水の江は抵抗し、一日で釈放。会社との交渉が再開し一六日には覚書が交わされます。しかし、会社は水の江含む一〇数人を謹慎処分にしました。
 この間に、水の江は日比谷公会堂でワンマンショーを開き多数の観客が押し寄せます。他方、松竹の新生歌劇団は不振が続きます。会社は水の江を戻すしかなくなり、水の江は残った八人全員を戻すならば、との条件を付けて復帰を勝ちとりました。
同じ頃、無声映画から音が出る映画に時代が変わり、解雇された活動弁士の争議が一九三二年四月に浅草で起きます。無声映画の時代が終わり、弁士の解雇が続いたのです。

【参考】「朝日新聞一〇〇年の記事にみる③
東京百歳」(朝日新聞社、一九九八)
「SMAP解散騒動を労働問題で考える。83年前の“アイドル”たちの闘いに学ぶこと」(近藤正高)
http://top.tsite.jp/news/anime/o/27338597/



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下町労働運動史 61

2016/08/11
下町ユニオンニュース 2016年8月9月合併号より

戦前の下町労働史 その二四
 
小畑精武

玉の井の“女性労働”

関東大震災で浅草から移転
 「玉ノ井」という駅が一九八八年まで東武線にありました。今は東向島。古い蒸気機関車や日光特急電車を展示している東武博物館があります。
 玉の井は関東大震災で被災した浅草の銘酒屋が移ってきた地域で、東京大空襲でも大きな被害を受けました。永井荷風の有名な小説「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」(一九三七年)の舞台となった私娼窟玉の井は「抜けられます」と書かれた陋巷(ろうこう)迷路(めいろ)の街、荷風は執筆のためか、連日のように通っています。
玉の井が栄えたのは関東大震災後から売春防止法が完全施行された一九五八年までのわずか三〇余年でした。売春防止法によって街はがらりと変わり、今はその面影はほとんどありません。
ここには主に東北の貧しい農家出身の女性たちが前借金で売られ、連れてこられました。あるいは、女工として東京に就職した後に企業閉鎖解雇となって来た例もありました。一九三五年の警視庁調査では総数九一七人(二~三〇〇〇人いたともいわれている)のうち、東北出身は四〇四人(四四%)を占めています。
玉の井写真

 住込みで休日が取れない
迷路となった狭い道に娼家は並び、三〇㎝四方の小窓から「ちょっと、ちょっと、お兄さん」「ねえ、ちょっと、旦那」「ちょっとここまで来てよ、お話があるの」と言ってお客さんを店に引き込んでいったそうです。客室は二階に三部屋ほどあり、間取りは三畳に四畳半か六畳程度でした。
小窓に座る女性は各娼家二人の規約がありました。しかし、実際には守られなかったようです。時間はショートタイム(ちょんの間)が一五分程度、ロング(時間)、泊まりの三つ。多くの女性は前借があり、拘束されていました。借金を返した後でも、毎日下図の家主や地主あるいは抱え主に揚銭を払わなければなりません。休んでいても払わなければならない厳しいもので、住み込みで休日もない状態でした。

構造図

 暴利をむさぼる搾取構造
地主、家主が得る権利金は膨大で玉の井御殿を建てた者が十五、六名もいました。他方、娼婦たちは性病になる危険が高く定期的な検診がありました。半病人になっている娼婦に足袋もはかせず着物も薄物で、雇主は客を取ることを強制しました。
金銭的な対立、中間搾取、年数契約の不履行、業者と結託して着物を高く売りつけるなどの搾取に対して挑戦したのが南喜一です。南は南葛労働会、共産党の活動家で、弟吉村光治は亀戸事件で殺されました。

 「女性向上会」を設立 
南は当初地域労働者を組織するために駅前に「江東地方工場連絡委員会」事務所を設けます。しかし目の前で起こっているあまりにひどい女性たちの環境に憤ります。女性たちの救援に三二年七月、南は「女性向上会」を設立し、「玉の井戦線ニュース」を発行、一時は半数の娼婦を組織化します。話を聞くと女性たちの家にのり込んで直談判、金を渡して証文を取るやその場で破り捨てました。
解決後玉の井から抜け出させ帰郷した女性は三三年八一人、三四年一三六人いましたが、親元で働いている女性はたったの二名。女性たちは一カ月もするとまた玉の井に戻ってきたのです。他方女性向上会は銘酒屋組合に認められ、南は運動の方向を待遇改善に転換し「東北子女売買問題」を無産政党、労働組合と共同してつくります。

【参考】前田豊「玉の井という街があった」ちくま文庫、2015
     日比恆明「玉の井-色街の社会と暮らし」2010
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下町労働運動史 60

2016/06/30
下町ユニオンニュース 2016年7月号より

戦前の下町労働運動史 その23
賛育会とあそか会

小畑精武

無料診察から始まった賛育会
賛育会病院は錦糸町(墨田区太平)にあります。「わたしはここで生まれたヨ」という声をよく聞きます。賛育会は「一九一七年(大正六年)に東京帝国大学キリスト教青年会(東大YMCA)の有志が貧しい庶民のために無料診療を行ったことが、はじまりでした。」(賛育会HP)その中に初代病院長になる河田茂博士がいました。医療は金持ちのもの庶民には手が届かない時代です。
一九一八年三月一六日、賛育会はキリスト教精神である「隣人愛」に基き「女性、子どもの保護・保健、救療」を目的に、初代理事長木下正中博士、医院長河田茂と大正デモクラシーの代表者吉野作造博士を指導役として創立されます。四月一日、古工場を借りてベッド一つの「妊婦乳児相談所」を開設、これが賛育会病院の最初でした。翌年、庶民を対象とした日本初の産院が開設されました。

関東大震災で産院消失テントで再開
一九二三年九月一日、昼前、マグニチュード七・九の関東大地震発生、賛育会本所産院(現賛育会病院)を容赦なく襲います。
三三歳の河田茂は産院の食堂で昼食中、食堂の隣の託児所の子どもを避難させ、二階の入院中の産婦一〇人も壁が落ちるなか救援。三五~三六人の乳児、産婦、託児所の子どもが助かりました。

しかし、産院は消失、河田は呆然としましたがただちに救援班を組織し、テントによる臨時の産院を設けます。その後も、産院の再建に尽力し、仮建築の産院を元の場所に建てます。無償の慈善事業から有償の社会事業に転換していきました。
関東大震災後に東京帝大学生による救護活動や借地借家調停が始まり、翌年賀川豊彦からその継続を求められ、賛育会の隣柳島に東京帝大セツルメントがつくられます。
一九四五年三月一〇日、今度は東京大空襲が賛育会を襲います。患者を炎の海の中、避難させることができましたが、施設はすべて焼失。戦争に次々と医者も出征し、関東大震災時のように再建は難しく、空襲後二日後に焼けただれた賛育会病院の屋上で解散式を余儀なくされました。しかし、戦後一九四六年に戦地からスタッフが帰還し賛育会病院の復興が始まります。

あそか会の設立
関東大震災被災者救援から始まる
あそか会病院は貧しい人々が住んでいた江東区の猿江に設立されました。賛育会はキリスト教徒が中心に。あそか会は仏教(浄土真宗)の西本願寺の九条武子たちによって、一九二三年の関東大震災後被災者の救護所を上野、日比谷、江東に設けたのが始まりです。あそか(無憂華)は仏教の三大聖樹の一つ。九条武子の歌集「無憂華」の印税を基に、一九三〇年に現在地(当時は深川区猿江裏)に鉄筋コンクリート三階建病院を開設します。二〇〇坪の土地を同潤会(大震災後の住宅建設を進めた公的団体、同潤会アパートが有名)から借りました。

 看護婦田中もとの活躍
若くして四二歳で亡くなった武子の遺志を継いで、土地探しや資金集めなど、苦労して病院建設を進めたのが看護婦田中もとでした。病院経営や社会事業などあそか会の基礎をつくります。三五年には財団法人になりました。
三四病床で診療科目は内科、外科、小児科、産婦人科、耳鼻科、眼科、歯科。診療は無料と有料があり、自治体発行の施療券を持参すると無料になりました。貧困の妊産婦は無料でお産をし、産後も1~2週間病院で過ごすことができ、乳児にも目が届きました。その結果地域の死産率や乳児死亡率は確実に減っていきました。
二つの病院建設にキリスト教、仏教と宗教が根本にあったことは考えさせられます。

【参考】
賛育会ホームページ
江東区女性史編集委員会編「江東に生きた女性たち‐水彩のまちの近代」ドメス出版

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下町労働運動史 59

2016/06/01
下町ユニオンニュース 2016年6月号より

小畑精武
戦前の下町労働史 その二二

打ち続く東京交通労組の争議
 世界大恐慌は東京市電の労働者にも大きな負担を強制してきました。一九二九年一二月電気局は市電従業員に賞与二割減、昇給無期停止を提案、市電従業員一万余人は一斉に全線ストに立ち上がり、警視総監の調停により賞与一割削減、昇給一期間の停止で解決。
 しかし、翌年度の東京市の予算案はこの調停を無視し、再び賞与一割減、昇給無期停止を組み込み、賃金切り下げ、歩合低下、職制改革による大量解雇、不当処罰の攻撃を仕掛けてきました。これに対し東京交通労組(東交)は再三再四当局に抗議しましたが、誠意ある態度が示されません。市議会も三月三一日市予算案を可決。東交は四月一日に満場一致以下の要求書提出を決定します。
 一 賞与一割減絶対反対
 二 震災手当の即時支給
 三 臨時工五十名の馘首取消並びに解雇手
当の増額
 四 恩給一時金の選択の自由
この要求に当局は四月六日全要求を拒絶、組合は一〇日中央委員会でさらに以下の要求を決め、一二日追加提出します。
 一 少年車掌の停年制適用廃止
 二 職制改革に伴う賃金値下げ反対
 三 不当処罰反対
  201606.jpg

一斉に総罷業を断行せよ!
当局はこれも無視。組合はストライキ体制へ一九日指令を発します。
「◎二〇日始車より一斉に総罷業を断行せ
よ!
イ 一九日中に始車の組を全部引上場所
 等に引上げさせよ。先頭出勤の喰止めを
完全に行う事に全力をあげよ。(略)
△車庫、軌道、工場、電力は各自計画通り
の方法に出でよ、断(行)。
△ブル新聞、逆宣伝を信ずるな、指令を最後まで厳守せよ。」
 この指令から、今回のストライキが東洋モスリン争議のような工場占拠とは異なり、「引上げ場所」への籠城であることがわかります。同じころ出来たばかりの東京地下鉄一九三二年の初ストライキは電車を占拠して上野車庫から電車を出させない型でした。
 四月二〇日早朝より市内交通機関は一斉にストップ。二日目にはスト未参加の支部も参加し、一万二五〇〇人の大争議となりました。当局の青年団、在郷軍人会などによるスキャップ(スト破り)は運転不慣れで交通事故が続出。当時地下鉄は浅草雷門―万世橋のみで、都心部は市電の天国、その市電がストップとなれば大混乱は必至でした。

批判は当局、警視庁へ 
市電大ストライキと交通事故続出による市民の交通不安は極度に達し、市民の批判は市当局や警視庁に向けられます。「争議首脳部は巧みに『官犬』の追及の網の目を逃れ、時々刻々の情勢に応じた指令を発して、争議団の結束と士気の鼓舞に全力を集中した」(篠田八十八「東京市電の大争議」)
 指令第九号には「局長の奴ら面喰って各従業員の自宅へ速達を出して、出勤命令に従わぬと馘首するとオドかしている。この際アンナ奴の命令なんか一人も聞く者が居るものか、笑ってやれ」と争議団は意気揚々です。
争議は市電の電燈電力や東京市従へ、神戸市電が委員長の解雇問題で総罷業に、さらに大阪など全国ゼネストへの広がりを見せます。

市長に委任し、争議惨敗へ
警視庁は争議団の解散命令を発し、弾圧や争議団分裂など懐柔が広まります。三日間のストを闘った東交は組合を守るために、市民への声明書を出し新たに八項目要求を示します。二四、二五日と市長と交渉し、市長は「争議を打ち切れば誠意を持って解決せん」と言明。争議団は六日間の争議を悪戦苦闘の末打ち切りました。「同志諸君!鉾は収められた。だが、我々の生命のある間、労働者の解放されざる間、我々の闘争は継続される。直ちに再起の闘争に移らなければならない。」指令第一六号は次の闘争を呼びかけます。
堀切市長と筧電気局長はストの責任を負って辞職しました。

【参考】林 茂編「恐慌から軍国化へ」(平凡社、一九七五)
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下町労働運動史 58

2016/04/27
下町ユニオンニュース 2016年5月号より

戦前の下町労働史 その21
  小畑精武

山花てるみさん・バス車掌の仕事
久田てるみさんが山花秀雄さんと結婚する前の仕事は派出看護婦でした。そこでの労働は病院とは違います。事務所は麻布六本木。利用者は「ブルジョア家庭で気位が高く、病人も我儘で看護婦を対等の人間とみなさず、女中代りに雑用を言いつけたりすることが珍しくなかった」のです。束縛される泊まり込みの看護、自分の時間が取れない労働に不満を持つようになり、街頭の看板で見つけた、一日八時間労働、制服支給、満一五歳以上、日給九六銭という青バスの女子車掌募集に応じました。一九二七年四月二〇歳でした。
三〇人の募集に一〇〇人以上が応募、口頭試問と作文試験にパス、上野営業所で一月の研修、空車に乗って停留所を覚える実地訓練、
その上で警視庁から免許証がおりました。
私営青バスの新宿営業所→築地→東京駅が仕事のコースです。六日ごとに公休一回、公休日出勤は二倍の賃金、早出などには特別手当がつき、一日フル乗務を希望して収入を得ることもできたそうです月収にして五〇円は当時としては高い賃金でした。

青バス

健康保険、生理休暇要求でスト
一九二八年七月、市バス「円太郎」の車掌一〇〇人以上が男女差別待遇撤廃要求でストライキに入りました。私営の青バスでも健康保険獲得、生理休暇、オーバー支給などを要求して、ストライキに入りました。てるみさんはストの中心で活躍、会社からにらまれます。下宿の主人が無産政党関係者で「資本論」を読むようになります。難しいところもありましたが、婦人の解放を含め労働者全体の解放歌い上げるマルクスの思想が少しづつ理解できるようになります。築地小劇場に通い、ゴリキーの「母」や「どん底」、レマルクの「西部戦線異状なし」などは自らの生き方を励ます刺激になりました。
突然会社から解雇処分を受けます。だが仲間たちや乗客からの復職運動がみのり解雇は免れました。やがて労農党大山郁夫委員長の右腕といわれた山花秀雄さんと「いつの間にか一緒になっていた」そうです。一九三〇年に結婚、その後も出産まで仕事を継続しましました。

不足金弁納制度、服装検査
「大正期の職業婦人」(村上信彦)によると、車掌の仕事の問題に「不足金弁納制度」がありました。これは一日の切符の売り上げが実際受け取った金額より多い場合、その不足分が給料から引かれ、逆に現金が多い場合には会社の利益として収める制度です。戦後にまで続いた会社もありました。
第二の問題は「服装検査」です。仕事が終わって退社をする前に車掌は必ず営業所の風呂に入らなければならない制度で、その間に女性の検査官が衣類を調べ、着服した不正金の有無を調べました。市バスが都バスに代っても続いたそうです。私営バスはその後車掌をホールドアップの体勢にして胸、腹、ブラウス、スカートの検査をする人権侵害を続けました。

車掌の仕事は「モダン」
さらに、てるみさんによると、①生理休暇はストによって三日間取れるようになったが、無給のためよほど苦しくない限り休まなかった、②戦後私営バスで一般化する車掌による車体清掃はなかった、③食事やトイレに行く時間で苦労はなかった、④運転士が車掌を私用に使うこともなかったそうです。「当時職業婦人として収入が多かったのは看護婦とバスの車掌。大げさに言うなら、大変モダンな感じで眺められた」と回想しています。
当時の車掌の仕事と比べると戦後の車掌の仕事は、車体清掃、食事時間、トイレ時間と場所、運転士の私用に使われるなど、劣悪化しました。今ではワンマン運転化され、女性運転士も見かけます。「男女均等待遇」は保障されているのでしょうか?
てるみさんは、結婚後は帝大セツルメント消費組合で働くことになります。

【参考】村上信彦「大正期の職業婦人」
(ドメス出版、一九八三)
山花郁子「山花てるみ一〇〇歳‐輝いた日々を刻んで‐」
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