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下町労働運動史(25) 大正時代 その17

2013/05/01
下町ユニオンニュース 2013年5月号より

大正時代の下町労働史 その17
関西と賀川豊彦救援活動
               小畑精武

関西からの関東大震災救援
関西からは、総同盟大阪連合会の西尾末廣(一八九一~一九八一、後に社会党書記長、民社党委員長)が九月五、六日には中央線経由で東京に駆けつけています。大阪に帰ると、義捐金運動を起こし三千円を集めるとともに、古衣類を集めて送りました。総同盟関西労働同盟会では、大阪、神戸、京都の各連合会が出資し、本部または罹災地組合の紹介状を持参した組合員には、一人一日五〇銭を支給することを決めています。
「九月二〇日になって、大杉栄が婦人伊藤野枝、甥橘宗一とともに憲兵に殺されたといういわゆる甘粕事件が発表され、十月に入ると、南葛労働組合の河合義虎、純労働者組合の平沢計七ら九名の労働運動者が警察に刺殺されたという亀戸事件が発表された。大杉一派(注、アナーキスト)とは激しい反目の間柄であり、またこの両組合は総同盟とは直接関係はないけれども、この官憲の暴虐には憤激せずにいられなかった。」(西尾末廣「大衆とともに-私の半生の記録」世界社)
関西の総同盟は向上会や官業労働関西同盟会と協力して、十一月二〇日に中之島公会堂で亀戸事件労働者大会並びに官憲暴行応戦大演説会を開きました。会場には代議員四〇〇人、傍聴者五千人がつめかけ、大いに気勢があがり、「責任者の厳罰」などを決議します。大演説会では十数人が演壇に立ちましたが、警官が「中止!」を連発したそうです。

 神戸から船で駆けつけた賀川豊彦
 賀川豊彦(一八八八~一九六〇)はキリスト教を学び神戸のスラム地区で伝道活動をしていました。下町運動史25
(詳しくは賀川豊彦「死線をこえて」教養文庫)さらに、一九二一年の神戸、川崎、三菱造船所の争議を指導し、逮捕もされます。しかし、争議は敗北し、彼の「無抵抗主義」、普通選挙をめざす路線は受け入れられず、労働運動からだんだんと遠ざかっていきました。そこに、関東大震災の報が飛び込んできます。
 九月二日の朝刊を見て驚いた賀川は、なんとその日の夕方に神戸から最初の救援船「山城丸」に便乗して東京に向かいました.三日の夜に船は横浜港に入港、四日朝未明に上陸。丸裸のようになった瓦礫の砂漠を徒歩で東京に向かいます。蒲田から品川間は汽車で徐行。上野の高台から浅草、本所、深川を見ると、焦土の平原になっていました。
 
 彼はいったん神戸に戻り、東京と行き来を続け、十月十八日本所松倉町(現東駒形四丁目、東駒形教会)に落ち着き、バラックを建て、下町の救援活動に乗り出しました。アメリカの赤十字からもらった三つの大テントを横川小学校に張ります。「私の第一にしたい仕事はセツルメントである。この冬を通じて罹災者の困苦を自ら体験し、バラックの苦悩を自らも一緒に味わい、それを科学的に調査して、世間に訴えることである。つまり、私は『眼』になりたい。」
 
  組織することが私たちの仕事だ
「組織する仕事が私達の仕事である。窮している人々の現状に触れて何からお助けしてよいかを見ると共に、お金を出さなくても、困窮している人々を自力で、それを突破し得る抱負を考えて差し上げるのである。それが真に親切なセツルメント・ワークである」
 こうした賀川の意思は伝道の時も、労働運動を進めている時も、震災の救援の時も変わることなく、同じでした。しかし、下町に救援に来た賀川は、労働組合ではなく、松倉町にテント張りのキリスト教会をつくり、本所基督教産業青年会を設立します。
 そこでの活動は、はじめは路傍伝道と応急的な救済事業でした。その後、宗教部、社会事業部、組合事業部、法律相談部、人事相談部、嘱望相談部と増え、セツルメントの形が整っていきます。
 【参考】「日本労働組合物語・大正」(大河内一男、松尾洋、筑摩書房、一九六五)「『作品』で読む関東大震災―震災が私を変えた」(安藤紀典、非売品、二〇一二)「賀川豊彦」隅谷三喜男、岩波書店、一九九五)
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