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下町労働運動史 (22) 大正時代その14

2013/02/02
下町ユニオンニュース 2013年2月号より

下町労働運動史 (22)
小畑精武
大正時代の下町労働史 その14
関東大震災「亀戸事件」その日③

 吉村光治は石川県出身。南葛労働会の発起人の一人で吾嬬支部長をしていました。勤めていた長兄が経営する南エボナイト工場が震災の二月ほど前に閉鎖され、九月一日は丸の内の鉄筋コンクリート工事現場で働いていました。午前一一時頃に吾嬬町の自宅に帰宅。半身不随の父母を弟の巌や佐藤欣治とともに近くの広場に移します。長兄の南喜一は救援活動から南葛労働会(後に東京合同労組)や共産党の活動に参加しますが、転向し一九四〇年に日本再生製紙を設立、後に国策パルプやヤクルトの会長となります。弟の巌は終生労働運動に身を投じます。
 自警団に駆り出された佐藤欣治は岩手県出身。南エボナイトに勤務し吉村光治と親しくなって、二二年に南葛労働会に加入、翌年吾嬬支部委員になります。
 震災当時は大日本自転車の労働者でしたが当日は病気療養で休んでいましたが、地震の発生とともに、吉村の両親の救援活動に参加しました。二日午後には吉村と共に災害防止調査会に参加して、町内の有志と柳島の市電(車庫)終点で避難者に水を与えたり、道案内をしたり、火傷した避難者を舟で避難させます。南喜一や巌は吾嬬町で自衛会を組織しています。「こうして革命的な闘争を誇る南葛労働会の会員も、震災という異常な状況のなかで、自衛団に駆り出されたのであった。」(加藤文三著「亀戸事件」)
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 中筋宇八は三日に大島自警団から朝鮮人と間違えられ亀戸遊園地の詰所に連れて行かれました。調べると平素から過激思想を持っている職工と判断され、亀戸警察署に引き渡されます。(読売新聞一〇月一一日)別の新聞では中筋宇八は亀戸香取神社で捕えられたとあり、実際はよくわかっていません。
足尾鉱山や常磐炭鉱で働いていた鈴木直一は八月末から渡辺正之輔の家に泊まっていて、一日には常磐炭鉱で知りあった加藤勘十(注・一九一九年八幡製鉄所争議指導、鉱夫総連合を結成、総同盟主事、戦後社会党議員)の家を訪ねました。不在のため川合義虎の家に行って布団や米を背負って安全な場所を求めて避難していたのです。

 純労働者組合の平沢計七も犠牲に 
 純労働者組合の平沢計七は地震で出先から大島三丁目の自宅への帰途、近所で親しくしていた正岡組合員の家が全壊していたので、家財の持ち出しを手伝います。夜には自警団として見回りを行い、一日の夜は城東電車の電車道に畳を敷き、布団を持ち出して野宿をしました。運命の三日は正岡宅の手伝い、夕食後に夜警へ出て、一休みをしている所を亀戸警察に捕まります。
 純労働者組合の幹部であった戸沢仁三郎は日立亀戸工場で鋳物工として働いていました。地震後に工場を出て亀戸五ノ橋際の自宅へ急ぎ、外出せずに閉じこもりました。

 戒厳令の布告
 偶然ですが九月一日には東京で全国警察署長会議が開催されていました。対策会議も開かれ各地に自警団の結成を通達します。「朝鮮人が暴動を起こし、社会主義者が扇動」「朝鮮人が井戸に毒物を投入」などのデマも飛ばされていきます。そして二日には戒厳令が布告されました。
三日夜には、被災した家族、友人、組合員を救援するとともに、自警団にも加わっていた南葛労働会や純労働者組合の活動家たち一〇人が南葛労働会本部などで逮捕され、四日にかけての夜に亀戸署で殺害されました。亀戸署にいて危うく難を逃れた全虎岩(日本名立花春吉)は、三〇〇人ほどの朝鮮人、五、六〇人ほどの中国人が捕まっており、翌朝には日本人七、八人と朝鮮人十六人が殺されたと、立ち番巡査から聞きました。
  
【参考】加藤文三著「亀戸事件-隠された権力犯罪」(大月書店、一九九一)藤田富士男、大和田茂著「評伝平沢計七」(恒文社、一九九六)
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