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下町労働運動史19 大正時代11

2012/11/01
大正時代の下町労働史 11
小畑 精武
             
関東大震災「亀戸事件」前夜③

 亀戸が舞台の戯曲「石炭焚(ふん)」
 平沢計七(三四歳)の純労働者組合について続けます。彼は文学に傾倒するなかで、労働者劇団を組織し、自ら脚本を書き、演じることもありました。一九一六年には「工場法」を書いています。機械工職人が工場で怪我を負い百円の補償金が出ると聞いて、使い道をめぐり妻と喧嘩になります。だが実際には二〇円しか出ない。それが工場との手切れ金になると忠告する片腕の古本屋の老人を無視して、受領印に拇印を押してしまいます。老人は「指のけが位じゃだめだ。足をきれ、目玉をつぶせ、死んでしまえ。死ななきゃわかるまい。意気地なし。意気地なし。」と絶叫する筋です。
「労働劇団」は一九二一年に、以下のような規約をもって結成されました。
第一条 本劇団は労働劇団と称す。
第二条 本劇団は民衆芸術革命の為に存在する。
第三条 本劇団は技芸員であると同時に観客である会員組織とす。
(中略)
第八条 本劇団は当分の中事務所を東京府下大島町二丁目三一番地大島労働会館に置く。
 この劇団の特徴は第三条にみられる「演ずる者」と「観る者」を一体化することによって一方通行ではない、双方向での認識の深化をねらった先駆的な取り組みとして注目されます。
 亀戸を舞台にした「石炭焚(ふん)」という戯曲もあります。ある職工がいい金になるから鉄を溶かす炉に石炭をくべる仕事につかないかと誘われ応じます。だが仕事は午前四時から午後八時まで、休みも月二回しかない。過労の結果、やせ衰え、夫婦げんかが絶えず、娘も煤煙のなかで呼吸病になって死んでしまう。すでに大正五年(一九一六年)に公害問題を提起していたのです。「平井ぜんそく」もありました。亀戸だけではなく下町は煤煙に覆われた公害の街でした。公害は「東京に青空を」訴えて一九六七年に当選した美濃部都知事の時代まで続くのです。
 平沢計七の純労働者組合は、労働者の争議だけではなく、労働者文化を追求していたのです。さらに大島に理想的な労働者の街をつくろうとしました。

「大島に労働者コンミューン」
 一九二〇年一〇月の純労結成後間もなく日本ではじめての本格的な消費組合(生協)共働社がつくられ、純労の大島労働会館に店を開きます。翌年の第一回総会では余剰金の処分案としてその四分の一を労働運動基金とすることが提起され、まもなく日本鋳鋼所の争議支援で実践されていきます。
設立から半年までの決算書では、全購買高が六〇七七円で利益は六六三円、半分を配当金、七〇円を争議援助金やスト支援金に回されました。掛け売り制を取ったものの未払い組合員はゼロに近かったそうです。
翌二一年三月には、これまた日本ではじめての信用組合労働金庫を設立しています。現在の労働金庫は一九五〇年に岡山と兵庫から始まりましたから、その三〇年前です。関東大震災後に賀川豊彦が墨田に中ノ郷信用組合を設立するのは遅れること七年(二八年)です。五月の預金高は三六五五円、貸出高は一三〇一円。スト中の労働者から「借入請求」が殺到しました。
さらに、二一年六月には「資本主義からの分離、共同自治の理想社会」実現を志した「分離運動」のアピール(枠内)が出されます。まさに「大島に労働者コンミューン」です。このロマンは戦後労働運動の高揚のなかの「東部ソビエト」構想に繋がっていきます。
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【参考】◆「評伝平沢計七」藤田富士男、大和田茂著、一九九六年、恒文社 ◆「日本労働運動の先駆者たち」労働史研究同人会、一九八五年、慶應通信
00:00 下町労働運動史 | トラックバック(0)

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