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下町労働運動史56

2016/02/26
下町ユニオンニュース 2016年3月号より
                              小畑精武
戦前の下町労働運動史 その19

 山花郁子さんが語る父秀雄さん
 今回はスペシャル版です。二月一三日に全国一般東京東部労組長崎副委員長のお誘いで、関東大震災後に下町で労働運動と労農党の活動をし、戦後は労働組合の再建から社会党副委員長になった山花秀雄の話を長女山花郁子さんから直接聴くチャンスをいただきました。
 冒頭、長崎さん制作の「先輩!山花秀雄」のDVDを観賞。一九二一年の神戸・川崎造船、三菱造船の三万五千人街頭デモなど山花秀雄さんを生み出した大正時代の神戸労働運動から、弾圧されたとはいえ労働者の持つすごいエネルギーを感じました。
 山花秀雄さんは一九二四年二〇歳の時、関東大震災後下町に支援拠点を構えた賀川豊彦(二五号参照)を頼って上京。紹介されたのが東京合同労組、本部は本所区太平町で南葛労働組合が発展した組織(左派系)でした。
山花さんはイズムより大衆とともに行動するタイプ。「大衆を抜きにして革命歌を唄い、酒を飲み、警官に体あたりをして革命家の気分になるのはインチキの革命家である。これからは本当の革命を考えるには大衆の中へ入らなければならない」と考えました。

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  旧本所公会堂
 大震災被災者支援でできた東大セツルメント(二九号)の労働校第一期生になります。月のうち一〇日働き、二〇日は運動をするという生活でした。また一九二六年に結成された労農党に入党し江東支部(本所区柳島本町)でも活動をしています。
 一九二八年一月普通選挙第一回の衆議院選挙が行われ、無産政党からは八名が当選。この時、山花さんは「寺尾牛乳販売店」(本所区)の争議を指導して市ヶ谷刑務所に再度勾留。釈放後、演説がうまかった山花さんは選挙応援に回り、会場の聴衆はいつも一〇〇〇人を超していました。3・15弾圧の日には早起きして千葉にオルグに行ったために難を逃れました。
 四月には労農党、評議会、無産青年同盟が結社禁止に。山花さんは尊敬する大山郁夫さんとともに新労農党づくりに全国オルグへ。不屈にも二八年一二月に両国の本所公会堂(後に両国公会堂と名称変更し、昨年取り壊わし)で結成大会を開催。しかし、またまた結社禁止解散の弾圧を受けます。

  青バス争議の車掌と結婚
 一九二七年久保田てるみさんが長野県から上京、新しい女性の職業である青バス車掌の職につきました。二八年七月市バスの車掌のストライキに刺激され、健康保険、生理休暇、オーバー支給を掲げ青バスの車掌もストライキに入り、てるみさんはその中心になって解雇通告を受けました。復職を勝ち取り、一九二九年の新労農党結成大会に勧められて傍聴参加、そこで当時二五歳の山花秀雄さんと二四歳の久保田てるみさんが出合います。山花さんは党の常任中央執行委員と青年部長になりました。そして「いつの間にか一緒になっていた」そうです。
 一九三一年三月山花郁子さんは本所区(現墨田区)業平橋で生まれ、小学校五年まで暮らします。郁子さんの「郁」は尊敬していた大山郁夫の「郁」からもらいました。満州事変により日本の長い大陸侵攻、一五年戦争が始まった年です。前年には東洋モスリンや大島製鋼所の大争議がありました

  「スパイの子」をはね返す
 大島製鋼所争議の前年に山花さんは東京金属労働者組合を結成して委員長になっています。政党活動と労働組合活動の両刀遣いです。その結果でしょうか、警察に検束された回数はなんと一二〇回を越えました。
「一年の三分の一はどこかのブタ箱で暮らしていた。だから生活費は困らないわけだ。
当時はね。生活といっても労働組合で給料というものはもらったことがないんです」と山花さん。「家に帰ってくれば、ああ帰ってきたな、帰ってこなければ、ああまたどこかに行ったんだな」とてるみさん。娘の郁子さんは、「いつも警察に引っ張られているからお父さんは悪いことをしている。」と思ったことも。その時小学校の先生は「悪いことはしていないよ」と励ましてくれました。「スパイの子か、どろぼうか」と言われたこともありました。その時は、夢中で雪をつかみ、言った上級生に投げつけたそうです。

【参考】山花秀雄「山花秀雄回顧録」(日本社会党機関紙局一九七九)


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