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下町労働運動史54

2016/01/01
下町ユニオンニュース 2016年1月号より
戦前の下町労働史 その一七
小畑精武

大島製鋼争議(中) 
 
プロレタリア小学校を開設 
一九三〇年八月二日に始まった大島製鋼所争議は一〇六日闘われました。その中ごろ九月一六日に、大島にはじめてのプロレタリア小学校がつくられます。
 学校で労働歌を威勢よく歌って、とがめられた争議団の子どもたちが学校に行くのが嫌になって学校へ行きたがらなくなり、それなら自分たちで教育しようということがきっかけです。教室は東京金属労組大島分会内で菅稔分会長宅(大島一‐一八五)。6畳、4畳半、3畳の3室。争議団の子弟は大島第一小学校六八名、第二小学校三四名。開校日の出席者は1年生一六名、2年生七名、3年生一〇名、4年生五名、5年生二名、6年生二名、高等小学校1年生一名の四一名、ギュウギュウ詰めだったでしょう。
「東京朝日新聞」が「争議から生まれた 初めてのプロ学校 宣伝ビラで家の壁に向かって 府下大島の新名物」との見出しで、教室の模様を伝えています。

争議が生んだ初のプロレタリア小
「教室には争議の宣伝ビラが一面に貼られ、その壁に向かって子どもたちはお行儀よく座っている。

2016-01
一尺巾の白木の机をはさんで男の先生があぐらをかいて読み方を教えているかと思えば、そのそばでは女の先生が二尺四方位の黒板を指さして金切声で算術を教えている。」
 「授業は午前九時から正午まで、午後は4年生以上の生徒に課外科目としてプロレアリア終身を教えるほか女生徒には裁縫も教えるという徹底ぶりだ。」先生は東京帝大生二名、慶応大学生など女性二人を含む六名で、みんな二二,二三才と若い。
 
「俺達は何故子供を休校させたか」
「 全国の労働者諸君
 産業合理化による賃金値下げ、首切り強制休業は資本家の注文通りにがむしゃらに行われている。・・・どうしても勝たねばならぬ俺達は全精力を動員してあらゆる方法を取って戦わねばならない。年老いた父母も、飢えた泣く赤ん坊も俺達と共に戦わせねばならない。父よ母よ その苦しさを資本家に打って突けろ 赤ん坊よ その飢えを資本家に叫べ 俺達が子供達を学校にやっておくことの出来ないのは此のためだ、・・・俺達はどうして子供をブルジョアの御用教育にまかせておくことが出来ようか?
  学校では何を教えているか?・・ 『今の金持ちはみんな小さい時から苦労して勤勉に働いた偉い人なのだ。』『巡査は人民の幸福を守るものだ』・・・
  俺達が資本家の横暴に対して官憲を向こうに回して、生きるか死ぬるかの戦をしている時に子供は学校でそんなことを教え込まれていたのだ。学校の教育によれば俺達はこの世の中で最もくだらない奴であり、最も凶暴な暴漢になる、だから学校では子供が争議団に出入することを厳禁し、労働歌を唄う子供に懲罰を加えているのだ。此の反労働者教育に労働者の子弟を任せておけというのか。・・俺達の行動を罪悪視する事を教えられている子供等を俺達に奪還して、俺達と同じ戦線に立たすことが必要なんだ。・・今日俺達は労働者の権利のために戦う階級的正義の闘士なのだ。今こそ俺達は子に向かって勇敢に叫ぶ事が出来るのだ。『俺の進む道を進め』と」

ピクニック・デモ 
九月二一日プロレタリア小学校は日比谷公園にピクニック(遠足)に行きます。大島からは市電(都電)に乗ってふだん電車に乗ったことがない子どもたちはおおはしゃぎ。帰りに日比谷公園出口に警官が待ち構えていて検挙され、子どもたちと分断されてしまいます。二九日間の勾留が終って先生が学校に戻ってみるとプロレタリア小学校は消えていました。

【参考】警視庁争議報告(大原社研所蔵)
 「戦前の労働争議Ⅻ『プロレタリア小学校を開設して闘った大島製鋼所争議』」(「月刊総評」七九年三月)
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