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下町労働運動史 (47)

2015/05/05
下町ユニオンニュース2015年5月号より

戦前の下町労働史 その十       小畑精武 

亀戸に「労働女塾」
帯刀(たてわき)貞代全国婦人同盟の書記長に

 下町労働史のハイライトは、一九三〇年の東洋モスリン(亀戸七丁目、下町ユニオン事務所もその敷地内)の闘いでしょう。二千人を超える女性たちの闘いを支えたのが一九二九年に設立された「労働女塾」です。設立者が帯刀貞代です。(写真右)

 彼女は島根県で生まれ、小学校の代用教員をします。わけがあって東京へ。納豆売りやウエイトレスをしながら上野の図書館で社会問題の本を読み、そこで東大新人会(二九号参照)の織本利と出会い、結婚。織本が一九二六年に結成された日本労農党(日労党)の活動に参加し、彼女も日労党系の全国婦人同盟を結成、書記長に選出されます。二人は亀戸に移り住み、亀戸のモスリン工場、染色工場などを見て回りました。
 織本が結核で倒れ、市川に転居。帯刀は生活のため日本紡織労組の常任書記になります。そこで東洋モスリンの女工、小林たねと出会います。小林から「いろいろな覚えごとや社会勉強ができる塾みたいなことを始めたい」といわれ、裁縫や家事を教え、組合の話もできる塾を始めることになりました。

亀戸に「労働女塾」を開設
 一九二九年八月、大恐慌が起こる直前、労働女塾は亀戸七丁目二二四番地、「モスリン横丁」に設立されました。
 「近来資本家の飽くなき合理化運動は抵抗力の弱き婦人労働者の上にその嵐の如き毒牙を磨き、低廉なる賃銀は益々切り下げられつつあり、労働の強度はいやが上にも強化せられて、工場に於ける婦人の呻吟は日に日に深刻の度を加えつつあります。・・かかる時あたかも合理化の嵐に直面する婦人労働者がその全力を挙げて自らの防衛に、解放のための闘争により鞏固(きょうこ)なる組織と鉄の如き訓練とを持つことの緊急必要なるは、多言を要しない処であります。我々が開設せる労働女塾はかかる時機に際し、従来とかく婦人労働者にかけたる教育機関の欠を補い、もっぱら婦人闘士の養成を使命として生まれたものに他なりません。」と女性活動家の養成をめざす設立の趣旨を明確にしています。しかし、黒板もなく机も不十分でした。その窮状を訴え、ミシン、裁縫用具の整備に「むこう六か月間に月一円」の資金カンパを訴えます。
 さいわい堺利彦、丸岡秀子、河崎なつなど広い層から支援をうけることができました。塾は帯刀の自宅で八畳、六畳と台所、家賃は月二五円、維持費三〇円でした。メンバーには東洋モスリン、東京モスリンなどから約三〇人が集まりました。帯刀は主事になります。

  学習と裁縫、手芸、割烹も
 教授科目は時代を反映しています。
一、イ、学科(一週間四時間、月曜日、水曜日)テキスト「婦人と労働組合」「プ
ロレタリア経済学」「婦人運動の当面の諸問題」「科外講話」
  ロ、裁縫 常時 和服、婦人子供洋服
  ハ、手芸 常時 編物、刺繍、袋物
  二、割烹 一週一度 土曜日
二、労働婦人文庫の完成
三、労働婦人ニュースの発行
 帯刀自ら講師となり難しい話をやさしくかみくだき学科を学ぶとともに、裁縫など当時の女性が身に付ける科目が重視されます。
 その背景には、二九年七月に婦人と青少年の深夜業が禁止され、一〇時間二交替制から八時間半二交替制になったことがあります。女工たちは多少の自由時間を得て、これまでできなかった裁縫などを求めたのです。

東洋モスリン大争議の中心に
 いよいよ次号から東洋モスリンの闘いが始まります。

Q・亀戸七丁目二二四番地はどこでしょうか?一度訪ねてみたいと思います。わかる人いますか?教えてください。
【参考】村岡悦子「婦人解放にかけた『労働女塾』のリーダー」『日本労働運動の先駆者たち』労働史研究同人会、一九八五 
鈴木裕子「女工と労働争議」れんが書新社 一九八九
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