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下町労働運動史41 戦前の下町労働史 その4

2014/10/30
下町ユニオンニュース 2014年11月号より
                                                   小畑精武

女性たちの闘い
 すでに何回かにわたって女性労働者の闘いを紹介してきました。東京モスリンで深夜労働のなか闘った山内みなについて十一、十二号でふれました。彼女はその後大阪にいって運動を継続します。一九二五年には東洋紡三軒家工場(約3千人)で総同盟と評議会の組合共同闘争が展開され、評議会の大阪紡織染色労組の婦人部長(執行委員)として争議団と指導部のアジトの連絡係を担いました。
 要求は、①運送部員に工場法適用を、②寄宿女工の外出を自由に、③女工の強制送金制度の廃止、④浴場の改善、⑤年二回の定期昇給など切実な要求でした。
その後彼女にも逮捕状が出て東京へ逃げていきます。東京では保険の外交員、髪結いの修業、労農党の仕事をします。

婦人同盟創立めぐって論争
 評議会の第二回大会(一九二六年四月)で「総本部に婦人部を設ける件」が討論され「賃金が安いのは婦人なるが故ではなく経済的負担が軽いから、性的差別は経済闘争の課題ではない」と設置反対論がでました。しかし、婦人同盟の創立に向けて「全国三千万の女性に訴える」のアピールが一九二七年二月に発せられました。そうしたなかから、七月に関東婦人同盟が結成され、労農党の大山郁夫委員長が祝辞を述べています。

大島町ぐるみで工場閉鎖反対の闘い
 婦人同盟はこの頃下町で闘われた女性労働者の争議に支援活動を行います。一九二七年六月に南千住(現足立区)花木ゴム工場で七〇人の女性労働者が、賃上げ一割五分、労働時間一時間短縮、年二回昇給の要求を出しました。ビラや交替で応援に行ったそうです。
 大島(現江東区)にあった富士ガス紡小名木川工場では、機械設備の老朽化を理由とした工場閉鎖を会社が突然提案。一〇〇〇人の女性労働者が工場閉鎖反対に立ち上がります。工場閉鎖は大島町民の生活にもかかわる問題で町民も工場閉鎖に反対し、町ぐるみの反対運動に広がっていきました。関東婦人同盟も争議支援の先頭に立って闘い、七月には本所セツルメントで演説会を開いてます。
 さらに、この夏には先月に紹介した失業手当、健康保険、最低賃金法、八時間労働制など「五法律獲得」闘争が闘われます。

 東京モスリンの闘い
 東京モスリン(後に出て来る東洋モスリンとは別会社)亀戸工場の一二〇〇人の女性労働者が会社に要求し、「強制貯金七割(当時会社は親のご機嫌をとるために賃金の七割を労働者の郷里に送金していた)を四割に」「賃上げ一割五分」「託児所の保母増員」「衛生設備改善」を勝ち取っています。この闘いも評議会と婦人同盟は共同して支援をすすめました。「婦人労働者の日常生活の中から生まれてくるものを政治的に高めてゆくのが任務であるはずだと私たちは考えて出かけて行ったのでした。」(山内みな)

 洋モス争議前段、初の「外出の自由」獲得
 一九三〇年の東洋モスリン(現下町ユニオンから東側)の大争議を闘う主体はすでに工場内に芽生えていました。亀戸第三工場の職工一〇〇人ほどは以前から総同盟の組合をつくっていました。一九二六年三月には亀戸工場従業員全員が加入できる組合として関東紡織労組城東支部が結成されます。
 翌年二七年四月には総同盟第二次分裂により中間派の日本労働組合同盟日本棒紡織労組城東支部になり、五月には待遇改善を要求し四九五一人が参加、翌日には七項目の要求すべてを認めさせました。その中には日本ではじめての「外出の自由」も含まれていました。
【参考】「山内みな自伝-十二歳の紡績女工からの生涯」(山内みな、新宿書房、一九七五年)「女工と労働争議‐一九三〇年洋モス争議」(鈴木裕子、れんが書房新社、一九八九)

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