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下町労働運動史 60

2016/06/30
下町ユニオンニュース 2016年7月号より

戦前の下町労働運動史 その23
賛育会とあそか会

小畑精武

無料診察から始まった賛育会
賛育会病院は錦糸町(墨田区太平)にあります。「わたしはここで生まれたヨ」という声をよく聞きます。賛育会は「一九一七年(大正六年)に東京帝国大学キリスト教青年会(東大YMCA)の有志が貧しい庶民のために無料診療を行ったことが、はじまりでした。」(賛育会HP)その中に初代病院長になる河田茂博士がいました。医療は金持ちのもの庶民には手が届かない時代です。
一九一八年三月一六日、賛育会はキリスト教精神である「隣人愛」に基き「女性、子どもの保護・保健、救療」を目的に、初代理事長木下正中博士、医院長河田茂と大正デモクラシーの代表者吉野作造博士を指導役として創立されます。四月一日、古工場を借りてベッド一つの「妊婦乳児相談所」を開設、これが賛育会病院の最初でした。翌年、庶民を対象とした日本初の産院が開設されました。

関東大震災で産院消失テントで再開
一九二三年九月一日、昼前、マグニチュード七・九の関東大地震発生、賛育会本所産院(現賛育会病院)を容赦なく襲います。
三三歳の河田茂は産院の食堂で昼食中、食堂の隣の託児所の子どもを避難させ、二階の入院中の産婦一〇人も壁が落ちるなか救援。三五~三六人の乳児、産婦、託児所の子どもが助かりました。

しかし、産院は消失、河田は呆然としましたがただちに救援班を組織し、テントによる臨時の産院を設けます。その後も、産院の再建に尽力し、仮建築の産院を元の場所に建てます。無償の慈善事業から有償の社会事業に転換していきました。
関東大震災後に東京帝大学生による救護活動や借地借家調停が始まり、翌年賀川豊彦からその継続を求められ、賛育会の隣柳島に東京帝大セツルメントがつくられます。
一九四五年三月一〇日、今度は東京大空襲が賛育会を襲います。患者を炎の海の中、避難させることができましたが、施設はすべて焼失。戦争に次々と医者も出征し、関東大震災時のように再建は難しく、空襲後二日後に焼けただれた賛育会病院の屋上で解散式を余儀なくされました。しかし、戦後一九四六年に戦地からスタッフが帰還し賛育会病院の復興が始まります。

あそか会の設立
関東大震災被災者救援から始まる
あそか会病院は貧しい人々が住んでいた江東区の猿江に設立されました。賛育会はキリスト教徒が中心に。あそか会は仏教(浄土真宗)の西本願寺の九条武子たちによって、一九二三年の関東大震災後被災者の救護所を上野、日比谷、江東に設けたのが始まりです。あそか(無憂華)は仏教の三大聖樹の一つ。九条武子の歌集「無憂華」の印税を基に、一九三〇年に現在地(当時は深川区猿江裏)に鉄筋コンクリート三階建病院を開設します。二〇〇坪の土地を同潤会(大震災後の住宅建設を進めた公的団体、同潤会アパートが有名)から借りました。

 看護婦田中もとの活躍
若くして四二歳で亡くなった武子の遺志を継いで、土地探しや資金集めなど、苦労して病院建設を進めたのが看護婦田中もとでした。病院経営や社会事業などあそか会の基礎をつくります。三五年には財団法人になりました。
三四病床で診療科目は内科、外科、小児科、産婦人科、耳鼻科、眼科、歯科。診療は無料と有料があり、自治体発行の施療券を持参すると無料になりました。貧困の妊産婦は無料でお産をし、産後も1~2週間病院で過ごすことができ、乳児にも目が届きました。その結果地域の死産率や乳児死亡率は確実に減っていきました。
二つの病院建設にキリスト教、仏教と宗教が根本にあったことは考えさせられます。

【参考】
賛育会ホームページ
江東区女性史編集委員会編「江東に生きた女性たち‐水彩のまちの近代」ドメス出版

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時給15ドル、時給1500円は常識だ

2016/06/03
アメリカ初め世界各地で最賃引き上げ運動は進んでいます。
マクドナルドなどのファストフードに対する世界同時アクションでは時給15ドルを掲げ、日本でも時給1500円を掲げて運動が進められています。

以下ではオバマとクリントンの発言も見られます。

https://youtu.be/x1RBdFQgzjo

https://youtu.be/AHiH8GiMrGw
00:00 最低賃金UP | コメント(0) | トラックバック(0)

下町労働運動史 59

2016/06/01
下町ユニオンニュース 2016年6月号より

小畑精武
戦前の下町労働史 その二二

打ち続く東京交通労組の争議
 世界大恐慌は東京市電の労働者にも大きな負担を強制してきました。一九二九年一二月電気局は市電従業員に賞与二割減、昇給無期停止を提案、市電従業員一万余人は一斉に全線ストに立ち上がり、警視総監の調停により賞与一割削減、昇給一期間の停止で解決。
 しかし、翌年度の東京市の予算案はこの調停を無視し、再び賞与一割減、昇給無期停止を組み込み、賃金切り下げ、歩合低下、職制改革による大量解雇、不当処罰の攻撃を仕掛けてきました。これに対し東京交通労組(東交)は再三再四当局に抗議しましたが、誠意ある態度が示されません。市議会も三月三一日市予算案を可決。東交は四月一日に満場一致以下の要求書提出を決定します。
 一 賞与一割減絶対反対
 二 震災手当の即時支給
 三 臨時工五十名の馘首取消並びに解雇手
当の増額
 四 恩給一時金の選択の自由
この要求に当局は四月六日全要求を拒絶、組合は一〇日中央委員会でさらに以下の要求を決め、一二日追加提出します。
 一 少年車掌の停年制適用廃止
 二 職制改革に伴う賃金値下げ反対
 三 不当処罰反対
  201606.jpg

一斉に総罷業を断行せよ!
当局はこれも無視。組合はストライキ体制へ一九日指令を発します。
「◎二〇日始車より一斉に総罷業を断行せ
よ!
イ 一九日中に始車の組を全部引上場所
 等に引上げさせよ。先頭出勤の喰止めを
完全に行う事に全力をあげよ。(略)
△車庫、軌道、工場、電力は各自計画通り
の方法に出でよ、断(行)。
△ブル新聞、逆宣伝を信ずるな、指令を最後まで厳守せよ。」
 この指令から、今回のストライキが東洋モスリン争議のような工場占拠とは異なり、「引上げ場所」への籠城であることがわかります。同じころ出来たばかりの東京地下鉄一九三二年の初ストライキは電車を占拠して上野車庫から電車を出させない型でした。
 四月二〇日早朝より市内交通機関は一斉にストップ。二日目にはスト未参加の支部も参加し、一万二五〇〇人の大争議となりました。当局の青年団、在郷軍人会などによるスキャップ(スト破り)は運転不慣れで交通事故が続出。当時地下鉄は浅草雷門―万世橋のみで、都心部は市電の天国、その市電がストップとなれば大混乱は必至でした。

批判は当局、警視庁へ 
市電大ストライキと交通事故続出による市民の交通不安は極度に達し、市民の批判は市当局や警視庁に向けられます。「争議首脳部は巧みに『官犬』の追及の網の目を逃れ、時々刻々の情勢に応じた指令を発して、争議団の結束と士気の鼓舞に全力を集中した」(篠田八十八「東京市電の大争議」)
 指令第九号には「局長の奴ら面喰って各従業員の自宅へ速達を出して、出勤命令に従わぬと馘首するとオドかしている。この際アンナ奴の命令なんか一人も聞く者が居るものか、笑ってやれ」と争議団は意気揚々です。
争議は市電の電燈電力や東京市従へ、神戸市電が委員長の解雇問題で総罷業に、さらに大阪など全国ゼネストへの広がりを見せます。

市長に委任し、争議惨敗へ
警視庁は争議団の解散命令を発し、弾圧や争議団分裂など懐柔が広まります。三日間のストを闘った東交は組合を守るために、市民への声明書を出し新たに八項目要求を示します。二四、二五日と市長と交渉し、市長は「争議を打ち切れば誠意を持って解決せん」と言明。争議団は六日間の争議を悪戦苦闘の末打ち切りました。「同志諸君!鉾は収められた。だが、我々の生命のある間、労働者の解放されざる間、我々の闘争は継続される。直ちに再起の闘争に移らなければならない。」指令第一六号は次の闘争を呼びかけます。
堀切市長と筧電気局長はストの責任を負って辞職しました。

【参考】林 茂編「恐慌から軍国化へ」(平凡社、一九七五)
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