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『外国人支援ネットワークKAMEIDO』土曜外国人相談会

2016/04/27
下町ユニオンニュース 2016年5月号より

「カトリック東京国際センター(CTIC)」と「東京労働安全衛生センター」「下町ユニオン」の3団体で「外国人支援ネットワークKAMEIDO」を発足し、リーマンショックでの「派遣切り」を契機にスタートした外国人労働者の労働生活相談を継続して取り組んできました。
この4月からこれまで金曜に行ってきた外国人相談会を毎月2回土曜10~18時に変更しました。
平日から土曜になったことでより参加しやすくなったことを踏まえて、日系ラテン労働者に加え、下町地域で働き生活している外国人労働者とも積極的に関係を作り交流・学習の場を作っていくことを今後の目標にしました。今はユニオンの外国人メンバー(エチオピア、ウガンダ、パキスタンなど)を通じて仲間の人に声かけをしているところです。相談だけでなく、学習会(労働法や社会保険、税金ほか)や交流イベントも計画中です。土曜相談会は東京労働安全衛生センター会議室で行っています。協力いただける組合員の方はぜひ一度見に来ていただければと思います。5月の相談会は7日と21日です。

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下町労働運動史 58

2016/04/27
下町ユニオンニュース 2016年5月号より

戦前の下町労働史 その21
  小畑精武

山花てるみさん・バス車掌の仕事
久田てるみさんが山花秀雄さんと結婚する前の仕事は派出看護婦でした。そこでの労働は病院とは違います。事務所は麻布六本木。利用者は「ブルジョア家庭で気位が高く、病人も我儘で看護婦を対等の人間とみなさず、女中代りに雑用を言いつけたりすることが珍しくなかった」のです。束縛される泊まり込みの看護、自分の時間が取れない労働に不満を持つようになり、街頭の看板で見つけた、一日八時間労働、制服支給、満一五歳以上、日給九六銭という青バスの女子車掌募集に応じました。一九二七年四月二〇歳でした。
三〇人の募集に一〇〇人以上が応募、口頭試問と作文試験にパス、上野営業所で一月の研修、空車に乗って停留所を覚える実地訓練、
その上で警視庁から免許証がおりました。
私営青バスの新宿営業所→築地→東京駅が仕事のコースです。六日ごとに公休一回、公休日出勤は二倍の賃金、早出などには特別手当がつき、一日フル乗務を希望して収入を得ることもできたそうです月収にして五〇円は当時としては高い賃金でした。

青バス

健康保険、生理休暇要求でスト
一九二八年七月、市バス「円太郎」の車掌一〇〇人以上が男女差別待遇撤廃要求でストライキに入りました。私営の青バスでも健康保険獲得、生理休暇、オーバー支給などを要求して、ストライキに入りました。てるみさんはストの中心で活躍、会社からにらまれます。下宿の主人が無産政党関係者で「資本論」を読むようになります。難しいところもありましたが、婦人の解放を含め労働者全体の解放歌い上げるマルクスの思想が少しづつ理解できるようになります。築地小劇場に通い、ゴリキーの「母」や「どん底」、レマルクの「西部戦線異状なし」などは自らの生き方を励ます刺激になりました。
突然会社から解雇処分を受けます。だが仲間たちや乗客からの復職運動がみのり解雇は免れました。やがて労農党大山郁夫委員長の右腕といわれた山花秀雄さんと「いつの間にか一緒になっていた」そうです。一九三〇年に結婚、その後も出産まで仕事を継続しましました。

不足金弁納制度、服装検査
「大正期の職業婦人」(村上信彦)によると、車掌の仕事の問題に「不足金弁納制度」がありました。これは一日の切符の売り上げが実際受け取った金額より多い場合、その不足分が給料から引かれ、逆に現金が多い場合には会社の利益として収める制度です。戦後にまで続いた会社もありました。
第二の問題は「服装検査」です。仕事が終わって退社をする前に車掌は必ず営業所の風呂に入らなければならない制度で、その間に女性の検査官が衣類を調べ、着服した不正金の有無を調べました。市バスが都バスに代っても続いたそうです。私営バスはその後車掌をホールドアップの体勢にして胸、腹、ブラウス、スカートの検査をする人権侵害を続けました。

車掌の仕事は「モダン」
さらに、てるみさんによると、①生理休暇はストによって三日間取れるようになったが、無給のためよほど苦しくない限り休まなかった、②戦後私営バスで一般化する車掌による車体清掃はなかった、③食事やトイレに行く時間で苦労はなかった、④運転士が車掌を私用に使うこともなかったそうです。「当時職業婦人として収入が多かったのは看護婦とバスの車掌。大げさに言うなら、大変モダンな感じで眺められた」と回想しています。
当時の車掌の仕事と比べると戦後の車掌の仕事は、車体清掃、食事時間、トイレ時間と場所、運転士の私用に使われるなど、劣悪化しました。今ではワンマン運転化され、女性運転士も見かけます。「男女均等待遇」は保障されているのでしょうか?
てるみさんは、結婚後は帝大セツルメント消費組合で働くことになります。

【参考】村上信彦「大正期の職業婦人」
(ドメス出版、一九八三)
山花郁子「山花てるみ一〇〇歳‐輝いた日々を刻んで‐」
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下町労働運動史 57

2016/04/03
下町ユニオンニュース 2016年4月号より

戦前の下町労働運動史20   
小畑精武

反ナチ反ファッショを貫く
下町から全国へ 山花さん
一九三一年一〇月対華(中国)出兵反対大演説会が本所公会堂で開かれます。一二月には全国労農大衆党第二回大会が「帝国主義ブルジョアジーに対する反ファッショ闘争の運動方針」を採択。山花さんは常任中央執行委員・国際部長になります。
しかし、党内で戦争賛成派が増加、三二年七月には社会民衆党と全国労農大衆党が合同して社会大衆党が結成されます。山花さんは加藤勘十たちと全国労農大衆党を脱党して、労働組合運動に専念することになります。
総評を中心に東交を含む日本交通総連盟、東京市従などによる戦線統一懇談会を結成。八月から一二月にかけては江東映画支部東電気館争議を闘いました。
その後も山花さんは戦争反対、反ナチス・ファッショの合法左翼の政治的闘いと労働運動を展開。三三年に総評、統一会議、東交、東京市従などによる関東労働組合会議を結成し、合法左翼戦線の統一を追求しました。
三三年六月には反ナチス・ファッショ粉砕同盟を結成、七月には反ナチス・ファッショ排撃民衆大会を本所公会堂で開催、一〇〇〇人が参加、警察の弾圧に抗議した山花さんは責任者として逮捕され二九日間の勾留処分を受けました。これにハンガーストライキで抗議したら、中野の豊多摩刑務所に入れられてしまいました。201604メーデー検束
写真:メーデーでの検束(山花さんではない)

 三四年二月には東京市の新税に反対して「勤労市民税反対協議会」を結成、三月本所区の区議選に立候補しますが落選。
 五月、合法左翼労働組合戦線の統一として江東地方労働組合会議を結成、総評、統一会議、全関、関東一般、江東一般、江東従協が参加しています。一一月には五八組合、約一万三千人が加盟する日本労働組合全国評議会(全評・加藤勘十委員長)が誕生し、中央執行委員・財政部長になりました。全評は「総同盟の労働組合主義に対して階級闘争主義による」統一をめざし結成されたものです。松岡駒吉や西尾末廣に率いられた右派の総同盟を「労働組合主義」と批判し、全体的な統一には至りませんでした。唯一、三一年、三四年と続いた東北飢饉救援にイデオロギーを乗り越えて全無産団体東京協議会へ結集します。

右派と左派のメーデースローガン
三四年のメーデーは左派が二五〇〇名、スローガンは「労働者農民の敵ファッショを粉砕しろ」「民族・性・年令を問わず同一労働に同一賃金をよこせ」「臨時工を即時本工にしろ」「首切賃下げ労働強化絶対反対」。
右派は三五〇〇名で楽隊を先頭に葬式デモ、「一等国らしく労働賃金を引き上げよ」「政府は軍需工場の不当利得を取締まれ」「労働組合法を制定せよ」「健全なる労働組合主義の確立」で大きくかけ離れていました。
三五年一一月には深川木場で製材労働者生活擁護労働者大会が開かれ、生活擁護同盟が結成されます。この頃江東地区には江東一般や江東地方従業員組合協議会などの組織ができています。(詳しいことはよくわかりません。宿題です。)

 妻の一言で「非転向」を貫く
全国を飛び回っていた山花秀雄さんに対し、妻てるみさんは三四年の東京市電人員整理反対・賃下げ反対ストライキの応援団に。当局案の撤回を求めて市長宅夫人へ申し入れ「一か月二六円では生活できない。同情の言葉を聞きに参ったのではない」と訴え、そばの子どや赤ん坊が泣く始末となりました。
一九三六年二・二六事件の当日長男貞夫(後に弁護士、元社会党委員長)が誕生。
三七年七月日中戦争勃発の日に帝国主義戦争反対の大演説会を本所緑小学校で開催、これは戦前最後の大演説会となりました。一二月には人民戦線事件で逮捕され二年間投獄されます。官憲からの転向の誘いに対して、妻てるみさんからの「転向するな」のメモを心にして非転向でがんばりました。
【参考】山花秀雄「山花秀雄回顧録」
(日本社会党機関紙局一九七九)
「山花てるみさんにきく」(「まなぶ」)
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