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下町労働運動史 55

2016/01/31
下町ユニオンニュース 2016年2月号より

戦前の下町労働運動史 その一八
大島製鋼争議(下) 
小畑精武
 
 全面臨時休業へ
最初のプロレタリア小学校は短い命でした。しかし、争議は続きます。一九三〇年八月四日に「ストライキ=総罷業」に入った組合は要求を提出、会社は全面回答を拒否。六日には大島町第二小学校に加藤勘十や浅沼稲次郎(戦後社会党委員長、一九六〇年に右翼少年に暗殺)が参加する集会に六〇〇人が参加。
十一日から会社は工場を閉鎖し臨時休業突入。争議団代表四名は本社を訪問し社長秘書と面会しました。その後争議団本部への結集が悪くなり、争議指導に不満を持つ部分が反主流(組合同盟系)になっていきます。それでも争議団は組合員の結集を訴え、家庭訪問を繰り返して団結を守っていきました。
八月二八日から一週間を闘争週間とし、争議団は丸の内の本社、社長、重役の私邸などに家族ぐるみで押しかけ、さらに大川財閥の関連会社、工場への宣伝活動を展開しました。
九月五日会社は工場閉鎖・全員解雇を打ち出し、争議は厳しい局面に入ります。そうした段階で労農少年団(ピオニール)が結成されプロレタリア小学校が設立されました。

2016-2月号

なぜモスリンとの共闘ができなかった
同時期に、大島製鋼所からは歩いて三〇分もかからない隣の亀戸七丁目で東洋モスリンの女工三〇〇〇人が解雇撤回を闘っていました。(四八~五一号参照)でも有効な共闘は成立しませんでした。なぜか?答えになるかどうかわかりませんが、組合の政党系列の違いが大きかったと思われます。大島製鋼所は労農党系(東京金属、旧評議会系、山花秀雄)が主流であったのに対して、東洋モスリンは大衆党系(組合同盟系、加藤勘十、麻生久)が主流で党派争いが激しく、十分な共闘ができなかったと思います。九月二七日には団員三〇人が東洋モスリン支援に行き共闘を申し入れますが、組合同盟系のために要領を得ずに引上げて来たそうです。
争議団でも労農党(組合主流)と大衆党(反主流)との確執が激しくなり、反主流派は「俺達を苦境のドン底につき落とした争議屋をたたき出せ!」とビラを配布し、主流派の組合書記へ暴行が加えられ、六人が検挙されています。表面では共闘し、裏では党勢拡大で対立していたのです。
地域では争議中の葛飾汽船(小名木川の舟運会社・江戸川)と共同戦線をはっています。また錦糸町→水神森→大島→東陽町と水神森→モスリン裏→西荒川間の関連会社城東電車(同じ大川社長)に対しては運賃値下げ運動を地域住民と共に闘っています。
大島製鋼(労農党)から争議中の東京鋼板(大衆党系)に共同闘争の申し入れがなされ、九月二三日には両者の応援演説会が七〇〇名で開かれ、争議団は活気づきます。家庭訪問隊の活動により、毎日一四〇~一五〇人が結集し気勢をあげました。
大阪から争議支援金、東京交通労組の激励、消費組合からは米の差し入れも入りました。

 争議団屈服状態で終結
九月に大島町長による調停が始まります。争議団は「工場閉鎖反対、要求容認、解雇の場合は重役の私財をすべて出せ」との第三次要求を出します。大島町長は積極的に動き会社の専務とも会いました。一〇月に入ると砂町警察は争議団との接触を会社に求めます。しかし会社は動じません。大量の失業者を出した世界恐慌の荒波が襲ってきます。
一〇月六日には労農党(弁士大山郁夫)と大衆党(弁士麻生久)共催の大島製鋼所・東洋モスリン闘争支援演説会が一一〇〇人を集め本所公会堂で開催。二四日のモスリン「市街戦」にどう参加したかは不明です。(警視庁報告にも欠落しており、宿題です。)
一一月に入ると争議団長が辞任、警視庁は会社代表を招致、会社は争議団未加入者に退職手当上積みを支給し、争議団は崩れていきます。争議団は争議打ち切りを砂町署長に嘆願し、屈服状態となります。一〇六日間続いた争議は結局労資代表による若干の解雇手当増額と解決金の覚書を警視庁で交わし、「円満解決」を強いられ終結しました。
【参考】警視庁争議報告(大原社研所蔵)
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下町労働運動史54

2016/01/01
下町ユニオンニュース 2016年1月号より
戦前の下町労働史 その一七
小畑精武

大島製鋼争議(中) 
 
プロレタリア小学校を開設 
一九三〇年八月二日に始まった大島製鋼所争議は一〇六日闘われました。その中ごろ九月一六日に、大島にはじめてのプロレタリア小学校がつくられます。
 学校で労働歌を威勢よく歌って、とがめられた争議団の子どもたちが学校に行くのが嫌になって学校へ行きたがらなくなり、それなら自分たちで教育しようということがきっかけです。教室は東京金属労組大島分会内で菅稔分会長宅(大島一‐一八五)。6畳、4畳半、3畳の3室。争議団の子弟は大島第一小学校六八名、第二小学校三四名。開校日の出席者は1年生一六名、2年生七名、3年生一〇名、4年生五名、5年生二名、6年生二名、高等小学校1年生一名の四一名、ギュウギュウ詰めだったでしょう。
「東京朝日新聞」が「争議から生まれた 初めてのプロ学校 宣伝ビラで家の壁に向かって 府下大島の新名物」との見出しで、教室の模様を伝えています。

争議が生んだ初のプロレタリア小
「教室には争議の宣伝ビラが一面に貼られ、その壁に向かって子どもたちはお行儀よく座っている。

2016-01
一尺巾の白木の机をはさんで男の先生があぐらをかいて読み方を教えているかと思えば、そのそばでは女の先生が二尺四方位の黒板を指さして金切声で算術を教えている。」
 「授業は午前九時から正午まで、午後は4年生以上の生徒に課外科目としてプロレアリア終身を教えるほか女生徒には裁縫も教えるという徹底ぶりだ。」先生は東京帝大生二名、慶応大学生など女性二人を含む六名で、みんな二二,二三才と若い。
 
「俺達は何故子供を休校させたか」
「 全国の労働者諸君
 産業合理化による賃金値下げ、首切り強制休業は資本家の注文通りにがむしゃらに行われている。・・・どうしても勝たねばならぬ俺達は全精力を動員してあらゆる方法を取って戦わねばならない。年老いた父母も、飢えた泣く赤ん坊も俺達と共に戦わせねばならない。父よ母よ その苦しさを資本家に打って突けろ 赤ん坊よ その飢えを資本家に叫べ 俺達が子供達を学校にやっておくことの出来ないのは此のためだ、・・・俺達はどうして子供をブルジョアの御用教育にまかせておくことが出来ようか?
  学校では何を教えているか?・・ 『今の金持ちはみんな小さい時から苦労して勤勉に働いた偉い人なのだ。』『巡査は人民の幸福を守るものだ』・・・
  俺達が資本家の横暴に対して官憲を向こうに回して、生きるか死ぬるかの戦をしている時に子供は学校でそんなことを教え込まれていたのだ。学校の教育によれば俺達はこの世の中で最もくだらない奴であり、最も凶暴な暴漢になる、だから学校では子供が争議団に出入することを厳禁し、労働歌を唄う子供に懲罰を加えているのだ。此の反労働者教育に労働者の子弟を任せておけというのか。・・俺達の行動を罪悪視する事を教えられている子供等を俺達に奪還して、俺達と同じ戦線に立たすことが必要なんだ。・・今日俺達は労働者の権利のために戦う階級的正義の闘士なのだ。今こそ俺達は子に向かって勇敢に叫ぶ事が出来るのだ。『俺の進む道を進め』と」

ピクニック・デモ 
九月二一日プロレタリア小学校は日比谷公園にピクニック(遠足)に行きます。大島からは市電(都電)に乗ってふだん電車に乗ったことがない子どもたちはおおはしゃぎ。帰りに日比谷公園出口に警官が待ち構えていて検挙され、子どもたちと分断されてしまいます。二九日間の勾留が終って先生が学校に戻ってみるとプロレタリア小学校は消えていました。

【参考】警視庁争議報告(大原社研所蔵)
 「戦前の労働争議Ⅻ『プロレタリア小学校を開設して闘った大島製鋼所争議』」(「月刊総評」七九年三月)
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