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下町労働運動史 50

2015/08/12
下町ユニオンニュース 2015年8-9月合併号より  
小畑精武
戦前の下町労働史 その一三
  東洋モスリンの争議 ③

五〇〇人の解雇 非妥協的な会社
 世界大恐慌の広がりのなかで、日本の労働争議は三〇年に九〇六件、参加者八万一三二九人、三一年には九九八件、六万四五三六人と戦前のピークをむかえます。東洋モスリン争議はそのなかで注目すべき闘いでした。
 二月争議が解決して半年、九月に会社は綿紡部五〇〇人の大量解雇を強行してきます。
一、 綿紡部は九月二六日から休業
二、 寄宿舎居住者は帰国(帰郷)、三カ月間は標準日給三分の一を支給(その間に練馬、静岡工場などへの転勤、呼び戻さない場合には退職)
三、 即時退職の帰国者には標準日給二九日分の支給
四、 通勤者には旅費は支給しないが二、三と同じ
 これに対し労働組合は、①強制帰国反対、②解雇者の練馬・静岡工場への転勤、③希望退職者の募集、④一〇〇日分の手当支給を要求し、交渉を会社に申し入れしました。しかし、組合破壊を念頭に置く会社は頑なに拒否、組合は二三日から怠業(サボタージュ)、二六日からはストライキに突入しました。


田舎には帰れない
  女性労働者の大半は田舎から出てきて、会社構内の寄宿舎で生活をしていました。不況、不作のなかで「青大将や木の根を食べている」田舎には帰れないと決起したのです。白はちまき、赤たすき、太鼓を打ち鳴らしながら街中を行進し、亀戸地域の住民も巻き込んでいきました。
会社のそばには「労働女塾」があり女性活動家の育成をすすめています。(本連載(四七)参照)無産婦人同盟は女性労働者への激励、教育、ビラまき、争議資金集め、町内を回っての支援米集め、演説会の開催、家族会の組織化、警察の暴行に対する内務省への抗議などを組織し、争議支援を展開しました。

スト切り崩しの暴力団を追い出す
  「女工、女工」とさげすまされてきた女性労働者は暴力団に対して「名前は正義団だが、ほんとは暴力団なのよ!」と追いつめ、女性組合員五〇〇人と暴力団二〇〇人との大乱闘も展開されています。メーデー歌はじめ労働歌、太鼓、デモ行進を展開し、時には検束を受けながらも、亀戸の街に洋モス争議支援が浸透していきました。九月二八日には亀戸町民一万人が争議支援に街に出ます。ついには暴力団は会社から追い出されました。
かわって警官(官犬)が公然と工場内、寄宿舎内に入ってきました。「メーデー歌を唄うな、デモをやるな、太鼓をたたくな、旗をふるな、それをやると総検束をするぞ」とオドシをかけてきます。盆歌を労働歌と間違えて寄宿舎に土足で乱入することも、それを押し返すこともあったそうです。

田舎の家族を使った猛烈な切り崩し
 一時は追いつめられた会社ですが、卑劣な手段で巻き返し・切り崩しをはかります。再度鉱山出身の暴力団を入れ寄宿舎で殴ったり、短刀を見せつけたり乱暴を働きました。
田舎の父兄宛に「女性労働者の妊娠が三〇〇人を下らない」などの手紙を送りデマを流し、対する女性労働者は「組合という物はそんなにだらしない物ではありません」と連名で手紙を送り返しました。
会社は旅費を出し父兄を呼び寄せ、暴力団や警官を使って強制的帰郷を進めたのです。結局八九〇名が泣く泣く帰郷していきました。「家のために働きに来た女工たちは、また家の圧力で連れ戻された」のです。
帰郷者、退職者が増え、一部で生産が開始されそこへの就業者が増えていく中で、労働組合は「地域ゼネスト」を提起し、一〇月二四日亀戸で市街戦が闘われるに至ります。

【参考】鈴木裕子「女工と労働争議-一九三三年洋モス争議」一九八九年 れんが書房新社
江東区女性史編集委員会「江東に生きた女性たち-
水彩のまちの近代」一九九九年、ドメス出版
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