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下町労働運動史 49

2015/06/28
下町ユニオンニュース 2015年7月号より

戦前の下町労働史 その12      小畑精武

東洋モスリンの争議 ②
世界大恐慌の勃発
 
 世界大恐慌の始まりです。「暗黒の木曜日」といわれるニューヨーク株式大暴落が一九二九年一〇月におこりました。アメリカの失業者は恐慌前に一六〇万人でしたが、三年間でまたたくまに一二五〇万人へと増加。日本経済も株価は暴落し奈落の底へ落とされました。
 アメリカ市場に大きく依存していた生糸の生産も大暴落、労働者の実収入は二八年の一〇〇が翌年には九一・五、とくに紡績や製糸に多い女性は七七・四に下がりました。
 大恐慌は農村に広がり、さらに三一年には東北、北海道が大凶作に襲われ、夜逃げ、行き倒れ、親子心中、強・窃盗、娘の身売りなどすさまじい地獄絵の状況が生まれました。
 こうしたなか、同盟罷業、工場閉鎖反対など労働争議は二八年の三九七件、四万六二五二人の参加者が三〇年には九〇六件、八万一三二九人、三一年には九九八件、六万四五三六人と、戦前のピークに達します。(二〇一三年の半日以上のストライキはわずか三一件、一九七四年には五一九七件もありました)

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三〇年二月争議‐綿紡部工場閉鎖
 二九年七月の深夜業廃止に伴い、洋モス従業員組合は六月一六日に要求(嘆願)を出します。地域の土木請負業者のあっ旋により、深夜業廃止による月収低下はしない(日給者賃金の据え置き)、皆勤手当は新制度で実施、寄宿舎の食事改善などが実現して一九日に解決しました。
組合に押され気味の会社は経営状況がさらに悪化し、深夜業廃止と合理化を大恐慌下ですすめます。二六年下期の職工数八八二三人が二九年上期には六八五八人と二二%減少しましたが、生産は大幅に伸びています。
さらに会社は組合幹部の解雇はじめ弱体化をすすめるとともに、資本金の減資、亀戸第二工場の(綿紡部、女性六〇一名、男性二〇〇名)の閉鎖(解雇者一五七名、転勤者六〇〇名)さらに、第一、第三、第四工場の年功加給の廃止などを三〇年二月一五日に強行してきました。(第二工場は現在の水神森、サンストリート、元第二精工舎跡、他の工場は亀戸七丁目)

惨敗!だが団結力を学んだ二月争議
 従業員の大多数は、組合同盟・日本紡織労組洋モス支部協議会に属し、他に総同盟が第二工場の男性従業員の一定数を組合員とし、共産党系の全協が組合同盟の反対派を形成していました。
連日のように、第二工場労働者は構内デモを繰り返し、第四工場(四七九人)全員がストに入り、第三工場でも女性労働者の一部が工場内広場でメーデー歌を唄ってサボタージュに入ります。交渉は二四日に決裂。会社は二六日に従業員一〇〇余名に出勤停止、女工の外出禁止、組合の中堅活動家一二〇名の解雇、暴力団の導入など反撃を強めます。工場ごと労働者が決起し、暴力団や警官と対峙しました。
組合同盟本部は、この闘いが産業合理化による操業短縮実施の結果としてとらえ、全国の紡績工場を一斉に決起させること、持久戦を準備する方針を中央執行委員会で決議。しかし、争議はなぜか急速に終結へ向かい、総同盟が二八日に会社と、同組合関係者八四人のうち一七人の復職、解雇者への金一封支給等の条件で覚書を結びました。最大多数派の組合同盟も正義団を仲立ちに覚書を交わしましたが、組合承認は実現したものの一人の復職も実現できず、屈辱的な敗北を喫しました。(戦前は現在のように労働組合法-労働委員会がなく、争議はたびたび警察署長はじめ有力者の調停、仲裁に委ねられました)
盛り上がっていった闘争が突如として終結した背景に何があったのか?
圧倒的多数の女性労働者はどのような行動を展開したのか?次号をお楽しみに。

【参考】
鈴木裕子「女工と労働争議‐一九三三年洋モス争議」一九八九年、れんが書房新社
大河内一男、松尾洋「日本労働組合物語・昭和」
一九六五年、筑摩書房
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