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下町労働運動史(34) 大正時代 その26

2014/03/31
下町ユニオンニュース 2014年4月号より

大正時代 その26 京成電車のストライキ  
               小畑精武

    
東京市電従業員自治会の結成
強調文
 関東大震災から一年足らずの二四年五月一日、復興もようやく始まった頃、島上善五郎さんたち東京市電の労働者は「市電復興」を旗印に職場集会を八日間連続開き、当局を説得して「復興自治会」を結成。当局の電車課長を呼んで祝辞を受け、一万二〇〇〇人近い市電従業員自治会が誕生しました。
 二五年には普通選挙法と治安維持法が公布されますが、下町労働運動は大きな盛り上がりを見せました。大島、亀戸、本所、向島などで二六年一月から五月までに十四件の賃上げ、工場閉鎖反対、解雇手当・退職金支給闘争が記録されています。

   「けさ突如怠業を決行」
 一九二六年三月、千葉‐本所押上間の京成電車の従業員は会社に嘆願書を提出しました。しかし、会社に回答を拒絶され、ふたたび二八日に同じ内容の要求書を提出、三一日は回答予定日でした。三〇日、要求貫徹へ示威運動をすることになり、午前一時から高砂(葛飾区)停留所前の争議団本部に結集、二百数十名が血判をして最後まで闘うことを誓い合いました。「親切デー」と称して始発電車からのストが始まったのです。

京成電車のストライキと支援労働者

   京成電車のストライキと支援労働者

  争議中の労働者を解雇
会社は三一日自治会の要求案を拒否、翌一日は柴又帝釈天の庚申本祭りでしたが自治会側は欠勤届を出してストに入りました。
さらに会社は「反省を促す」との手紙を発送、自治会側は受け取りを拒否!会社は五日支部長以下一四八人の解雇を決定し、解雇通知を送りつけます。争議団は東京市電自治会に属し市電自治会本部に報告しました。市電、郊外電車から応援団が続々と高砂に駆けつけます。会社も多数の「壮士(ストつぶしの荒くれ)」をくりだし、一触即発。警察が警戒にあたりました。

「協定」成立
八日市電自治会は京成の社長と会見し、四要求のうち一項目でも認められない場合には持久戦に入り、場合によっては市電、郊外電車の同情ストも決行することを伝えます。解雇通知書には不備があり、八日までは解雇しないとの言明がなされ、全員の解雇通知書を突っ返しました。
八日正午にいったんは物別れになった交渉でしたが、午後一時から再開し交渉を継続、三時には自治会代表と会社の和解が成立し、以下の協定書に双方が調印をしました。
「     協 定 書
一、 待遇改善は三ヶ月以内に改善するという重役の声明を信頼すること
二、 金一万円を会社側より支出すること
三、 自治会の京成従業員に対し今後入会の勧誘を成さざること
四、 京成自治会支部を即時に解散すること、同時に親和会をも解散すること
五、 四月一日休業をなした行為につき会社に対して謝罪状を提出すること」
 
 自治会支部、親和会の解散で手打ち 自治会代表は高砂の争議団本部に戻り中央委員会に報告、中央委は協定案を認めます。しかし、争議団(支部)は組合権を破壊するとの意見が多く、中央委も支部の主張を認めるようになりました。会社側の御用団体である親和会も反対しました。
 結局翌日、親和会二五〇名が社長の説得に応じて解散を決め、自治会側も争議団の解散と共に支部解散式を行い、自治会と親和会の手打ちが行われて解決に至ります。
 ここから、東京市電自治会が上部団体の役割を果たしていたことがわかります。同時に会社は御用団体を使って外部(労働者の連帯)の影響を断ち切り、企業内へ抱え込むみ組織解散に成功します。「手打ち」という日本的和解も不思議ですね。
【参考】
資料「大正社会運動史(下)」田中惣五郎編 三一書房、一九七〇)
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下町労働運動史(33) 大正時代の下町労働史 その25

2014/03/02
下町ユニオンニュース 2014年3月号より

大正時代の下町労働史 25 
小畑精武

現実主義への方向転換と左派
関東大震災直後の労働運動は転換期を迎えます。大杉栄が殺害されアナーキズム、サンジカリズムが後退していきます。他方、総同盟は主流の社会民主主義派と左派の共産主義派との分裂へ向かいました。
総同盟鈴木文治会長は「労働組合は大衆に基礎を置くべきだ。社会改造については公正なる意見を有する識者の与論の首肯すべきものでなければならない」と「方向転換」を訴えます。総同盟第一三年度大会の宣言草案には「従来の観念的運動は、明らかに誤り。現実的利益を擁護しつつ、終局の目的に向かって進むべきものである」とあります。左派は「方向転換というよりも、過去の闘争を打ち捨てて、支配階級の前に屈する」と憤慨。修正案がつくられます。修正案は「労働運動は少数者の運動から転じて、大衆的運動に向かうべき一段階に到達し、改良的政策にたいする従来の消極的態度は、積極的にこれを利用することに改めねばならぬ。」と妥協の産物となり、満場の拍手で方向転換宣言を可決しました。背景には亀戸事件から普通選挙実施、ILOへの代表派遣、労働組合法制定、治安維持法への動きなど関東大震災後の社会変化がありました。

関東大震災前後の労組組織率
     組合数  組合員数  組織率
1921年  300   103,412  -
1922年  387   137,381  5.3%
1923年  432   125,551  5.6%
1924年  469   228,279  6.0%
1925年  457   254,262  6.5%

この間、労働者の生活は厳しさを増し、労働組合組織は着実に伸びていきました。
 総同盟は二五年の大会で決定的な分裂に至ります。その前の二四年一〇月の関東労働同盟大会で左右対立が激化し、右派主流派は役員独占をねらいました。議長の横暴不公平を糾弾した渡辺政之輔(労働者出身でやがて共産党委員長になる)にひき入れられた左派四組合(東部合同、関東印刷、横浜合同、時計工組合)が退場します。同時に理事会は渡辺たち六人の除名を決議。しかし本部の調整が入り、四組合は本部直属とし一二月に総同盟関東地方評議会(会長東部合同、藤沼栄四郎)を創設します。

東京合同労組の設立 本部は本所太平町
一九二五年(大正一四年)三月一二日、渡辺政之輔の東京東部合同労組に北部合同、南部合同平塚支部が加盟し、東京合同労組となります。さらに西部合同労組が加盟。組合員は東部合同五八〇人、北部合同二二〇人、西部合同が一〇〇人と一〇〇〇人近い組合員に拡大します。組合活動が自由な今日とさほど変わらない勢力に発展していきました。本部は東京東部合同労組の事務所。今の錦糸町オリナスの交差点に近い本所区太平町二‐二〇三でした。
東京合同労組は青年部の設置を決議するとともに、以下の八専門部を設けます。

①組織部 ②争議部 ③政治部 ④調査部 ⑤教育部 ⑥出版部 ⑦会計部 ⑧婦人部 

さらに、組織方針として渡辺政之輔は「自主的工場委員会」運動を提起します。しかし分裂後に結成された評議会の大会で否決されてしまいます。労働組合が工場の外に支部が組織され工場には分会が組織されるのに対して、工場委員会は一工場における労働条件に労働者の注意を向けるものです。将来は工場の産業的管理を準備し、訓練することを目的としました。
労働組合運動の分裂は普通選挙をめぐっても意見が分かれ、共産主義勢力は治安維持法で徹底的に解体へ追い込まれます。しかし、労働者の運動は右派においても戦闘性を維持して展開され、昭和期へと入っていきます。労働組合法もなく、労働組合活動が不自由な大正期においても、関東大震災後も着実に組合員は増加していきました。

【参考】
 「渡辺政之輔とその時代」
(加藤文三、学習の友社、二〇一〇年
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