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下町労働運動史(24)  大正時代 その16

2013/03/30
下町ユニオンニュース 2013年4月号より

大正時代の下町労働史 その16
労働組合(総同盟)の救援活動

               小畑精武

 関東大震災に対して労働組合はどのような活動をしたのでしょうか?救援活動については総同盟鈴木文治会長が自叙伝である「労働運動二十年」(昭和六年、一元社、復刻版)で述べています。
鈴木会長自身は上大崎(目黒駅付近)の自宅で被災します。「瞬間にして壁は崩れ、瓦は落ち、皿、茶碗、小針の棚より落ちる音すさまじく、身内の血も一時に凍りつくかとばかりの恐怖に襲われたのである。」
二日目の朝、火災が各所に起こります。彼は心配になって自宅から約四㎞の三田(港区)芝園橋にある総同盟の事務所(現在は友愛会館)に行きます。途中総同盟幹事の松岡駒吉宅を見舞っています。さいわい総同盟の本部は難を逃れました。
 総同盟は震災後第三日に善後策を検討するために緊急協議会を設け、罹災会員の調査と救援に努力することを決議。一一日に鈴木会長は後藤新平内務大臣(後に東京市長)と会見して失業者救済を要望し、芝浦埋立地の荷揚げ事業に東京市の雇い入れとして一日三〇〇人を雇い入れることになりました。
 鈴木会長自身も五日間毎朝五時に家を出て六時半本部前集合、七時から芝浦に出かけて臨時労働者とともに懸命に働きます。米を担ぎ、テントを担いました。四斗(七二㎏)俵の米の荷揚げを二人がかりで持ち上げる作業は辛かったそうです。「大将怠けて手は残兵空しからず」歯を食いしばって頑張りました。朝と昼、直径五寸(一五㎝)もある白米の握り飯が配られ、午後五時の作業終了後には一人二円二〇銭の手当てが支給されました。
失業者の救済として焼け跡の片づけ仕事もやりました。東京全市の焼け跡片づけ計画もたて後藤内相に献策をします。しかしあまりうまくことは進まなかったようです。

 全国から支援
総同盟内部では関東醸造労働組合藤岡支部からうどん九箱、野田支部が救援金七五〇円をはじめ、多くの金品が送られてきます。関西では関東からの総同盟本部や組合の紹介状を持参した組合員には救済として一日五〇銭の食費を支給しました。一〇月には総同盟以外の造機船工労組、自由労働者小津冥界、南葛労働会、理髪技友会、関東機械工組合、出版従業員組合、時計工組合など一八団体代表六五人が集まり、関東労働組合連絡協議会を結成し、罹災者の救済、就職あっせんに努力することになります。しかし具体化しないまま、総同盟は独自に失業救済に関する建議書を一一月八日に政府へ提出します。
総同盟は建議の中で、焼け跡処分事業には爆破作業は鉱夫、器具修理には木工、機械工、電気工、残骸物の運搬には焼失市電の車両の利用、軌道を利用した運搬などをあげ自薦しています。労賃は公定とし日給で三分の一は現金、三分の一は食糧券、三分の一は被服券を求めています。

 「理屈ばかりではダメだ」
鈴木会長は、「大震災が労働運動に与えた第一の教訓は、労働組合は理屈ばかり言っていてはダメだということ。共済機関もなければならない。亀戸事件で南葛労働組合並びに純労働者組合の幹部は一塊もなく軍憲の手で××されている。もし、これらの諸君がもっと社会的に有力な地位勢力を植え付けていたなら、よもやかかる悲惨な運命に陥らずにすんだであろう。口よりも手、議論よりも実行、理想よりも現実と、労働者の心持も地味に落ち着いてくるようになったのもまた当然の道行きだった」と総括をしています。
 
【参考】「労働運動二十年」(鈴木文治、一九六六年、総同盟五十年史刊行委員会、復刻版)「大正十二年労働運動概況」(社会局第一部、大正十三年、明治文献版)「日本労働組合物語」(大河内一男、松尾洋、筑摩書房、一九六五)
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下町労働運動史 (23) 大正時代その15

2013/03/06
下町ユニオンニュース 2013年3月号より

大正時代の下町労働史 その一五
            小畑精武

 本所被服廠跡で亡くなった活動家
 大震災で東京の工場の九〇%が被災、三七八〇人の職工が亡くなり、失業者は八万四千人に達しました。無念にも殺された亀戸事件の犠牲者。運よく生き延びた純労働者組合の戸沢仁三郎や獄中にいて助かった渡辺政之輔たち。他方、残念にも震災の犠牲者になったリーダーもいました。日本交通労働組合本所支部長の島上勝次郎さんです。
島上さんは一八八一年生まれ、東京市電本所車庫の車掌として、一九一九年に日本交通労働組合を結成。その後、支部結成を待遇改善とともに車庫ごとにすすめました。しかし、当局は支部の中心メンバー一〇名を解雇。専従となった島上さんたちは一九二〇年二月に五日間に及ぶ市電ストを指導。残念ながらストライキは敗北し、組織は解体して、振り出しに戻りました。
翌二一年秋には再度本所出張所の青年たちと相扶会を結成します。この組織は二四年には東京市電従業員自治会の核となっていきます。島上勝次郎さんは九月一日に避難先の本所被服廠(軍服工場)跡で炎に包まれて亡くなりました。被服廠跡は現在両国の横網町公園となり大震災犠牲者の慰霊堂があります。
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38,000人が亡くなった本所被服廠跡

被服廠跡は当時広場になっていて大震災の被災者が続々と集まり、たんすなど家財道具を持ち込む人でごった返していました。そこに地震による火災の火がまわり、火災旋風が発生して、荷物や馬までも巻き込まれるという大火災となりました。島上さんはそうした地獄図の中で亡くなっていったのです。
島上勝次郎さんの長女くにさんと二四年に結婚して島上姓を名乗ったのが島上善五郎さんです。

島上善五郎さんのこと
善五郎さんは本所車庫の車掌で勝次郎さんの後輩でした。勝次郎さんがつくった相扶会のメンバーとなり、二四年の市電従業員自治会結成に参加、本所支部長兼本部執行委員となります。島上善五郎さんはその後も市電労働運動はじめ、労農党、無産党、戦後は東京交通労働組合の再建、そして総評初代事務局長、社会党衆議院議員となって活躍します。
偶然ですが、私は江戸川区労協のオルグになったばかりの一九六九年一二月に島上さんの衆議院選挙を戦いました。当時の旭喜久男区労協事務局長(江戸川区職労書記長)と選挙ポスターを張る杭打ちをした記憶があります。残念ながらその選挙で島上さんは落選し、政界から引退していきます。
島上さんは歴戦の闘志にはみえない好々爺でした。区労協学習会で島上さんの話を聞く機会がありました。
「戦前は天皇が皇居からお出ましとなると、二、三日前に必ず刑事が私の所にやって来たものです。私を留置場へぶち込みました。天皇が戻ると釈放されましたが・・」。
予防拘束ですね。今は警察にぶち込むことはないようです。それでも、事前に公安刑事が来たり、問題を起こしそうな活動家を遠くへ出張させる会社もあるようです。島上さんの話はまだありますが後にまわしましょう。

 石川島造機船工労組の救援活動
鈴木文治会長の労働総同盟は震災後七日に緊急の協議会を開き、罹災会員の調査と
救援に努力することを決めています。(詳しくは次号以降で述べたいと思います。)
 壊滅状況の下町で救援活動を組織的に行うことは難しかったと思われます。それでも石川島造船所の造機船工労働組合は組織的救援活動をすすめました。幹部が旅費や小遣いを出し合って、焼け跡の片づけ、機械の修理、取り付け工事などを請負い、組合員に仕事を紹介しています。一〇月には深川の一角に無産者浴場を開設して、近所の人たちから感謝されたそうです。

【参考】「日本社会運動人名辞典」(塩田庄兵衛、青木書店、一九七九年)「社会労働大事典」(旬報社、二〇一一年)「日本労働組合物語・大正」(大河内一男、松尾洋、筑摩書房、一九六五年)
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