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下町労働運動史 21 大正時代13

2012/12/25
下町ユニオンニュース 2013年1月号より

大正時代の下町労働史 その13             
関東大震災「亀戸事件」その日②
               小畑 精武


 亀戸事件で虐殺された一〇人の平均年齢はわずか二三才でした。今では考えられないほど若い人たちです。川合義虎と平沢計七についてはすでに書きました。

 川合と友愛会本部に行っていた山岸
 八月三一日に始まった広瀬自転車の争議のために、川合義虎は山岸実司と友愛会の本部にいき、その後労働組合の戦闘的な活動家の機関誌「労働組合」の発送作業にあたっていました。
山岸実司は川合の生地に近い長野県の寒村で生まれ、幼い時に一家で上京。極貧のために小学校二年までしか通学できませんでした。一二歳の時に深川の紙屑屋の小僧、一五歳からは鉄工場の旋盤工見習いになります。不良の仲間にも入っていました。二二年春に吾嬬町の帝国輪業に勤務した時に、同郷の川合と知り合いになったのです。そこで、自分が持っていた無意識的な不平不満、燃える反逆心がなんであるかを知り、川合の家に同居することになりました。


「亀戸事件」で虐殺された活動家の
平均年齢は二三才
加藤高寿(二六)(南葛労働会)
吉村光治(二三)(南葛労働会)
鈴木直一(二三)(南葛労働会シンパ)
川合義虎(二一)(南葛労働会)
佐藤欣治(二一)(南葛労働会)
山岸実司(二〇)(南葛労働会)
北島吉蔵(一九)(南葛労働会)
近藤広造(一九)(南葛労働会)
平沢計七(三四)(純労働者組合)
中筋宇八(二四)(純労働者組合)


  救出援活動に参加
 その日はちょうど「労働組合」第四号が出来上がり、その発送作業をしている時に関東大震災がおこったのです。二人はただちに事務所を飛び出し、亀戸の南葛労働会本部に急ぎました。おそらく徒歩では麻布区新堀(現???)から二時間はかかるはずです。なぜか二人ははぐれてしまいます。
 途中、川合は母子四人が倒壊家屋の下敷きになって悲鳴をあげているところに出くわします。我を忘れて川合は危険に飛び込みました。全員を助けることはできなかったのですが、五歳、三歳ぐらいと乳幼児三人を救いだし、上野公園に落ちのびました。ビスケットや粉ミルクを買って、その夜を上野公園で子供たちと過ごしたのです。
 「義はどうしたのだろう。もう山岸さんは帰って居るのに。生きていれば何程遅れても、もう帰らなければならない。義は死んでしまったのではないでせうか」(川合義虎の母)
 
  下敷きの中から這い出す
 勤務先の大正板鍍金の夜勤から帰って二階で寝ていた加藤高寿と妻は倒壊した家屋の下敷きになったが何とか助かって、家の前の空き地に避難。そこで、川合義虎の母、近藤広造、山岸実司などと野宿をし、火事が近くまで来る様子で、一睡もできませんでした。
近藤広造は二二年に群馬県から上京、南葛飾郡小松川(現江戸川区)の野沢電気製作所に就職、同年の暮れに工場長と口論になって解雇。同じ工場で働いていた渡辺政之輔、川合義虎の支援で解雇を撤回させました。南葛労働会としての解雇撤回なのかは不明ですが、近藤は労働運動、社会主義運動に関心を抱き、南葛労働会に加入、小松川支部長になりました。まだ一九歳の時です。大震災の日は勤務先藤崎石鹸工場での夜勤明けでした。

 江戸川区の労働運動の原点か!?
 話は脇道にそれます。ところで、私が永年住み、働き、活動してきた江戸川区の労働運動の「原点」がどこにあったのか?大いに関心があります。でもこれまで研究書も資料も見たことがありません。でも見つけました!この原稿の参考にしている加藤文三著「亀戸事件-隠された権力犯罪」の近藤広造のページに、一九二二年に南葛飾郡(現江戸川区)小松川にあった野沢電気製作所で南葛労働会理事長渡辺政之輔や川合義虎が働いていたこと、近藤が南葛労働会小松川支部長であったことが書かれているのです。
今年二〇一三年は関東大震災九〇周年。亀戸事件も九〇周年になります。記念の行事をやりたいですね。呼びかけます。
【参考】加藤文三著「亀戸事件-隠された権力犯罪」(大月書店、一九九一)
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下町労働運動史20 大正時代12

2012/12/05
下町ユニオンニュース 2012年12月号より

大正時代の下町労働史 その12             
 関東大震災「亀戸事件」その日①
                        小畑 精武
 
 八月三一日に始まった広瀬自転車争議
いよいよ関東大震災・亀戸事件の運命の日がきます。前日の八月三一日、広瀬自転車で従業員の半数にあたる一八〇人の解雇が言い渡されました。広瀬自転車は、偶然ですが現在亀戸事件の犠牲者の碑(写真)がある浄心寺(通称赤門寺、亀戸)の前にありました。(「グループ23」の皆さんと一一月二五日に改めて犠牲者の碑を訪れ、来年二〇一三年に九〇周年をむかえる亀戸事件を現在から振り返る会を持ちたいと決意しました。)
月末の給料日に解雇手当半月分と自転車一台で解雇を言い渡したのです。工場自治会はすぐに解雇対策集会を開き、解雇通知の一括返上、交渉委員の選出、個人交渉は認めない、争議団の結団を決めました。交渉団は特高警察の介入を想定し第三次まで交渉委員を選出、なかには南葛労働会の会員が配置され、事件で殺される一九歳の北島吉蔵も含まれていました。当日は解雇通知書を一括返上。翌九月一日に以下の要求を提出しました。①解雇撤回、②自治会と協議し生産事業の継続、賃下げは一部承認、③退職者には相当の手当、④前三項の承認がないときは全員が南葛労働会に加入し交渉窓口とすること。
一日七時に工場に集まり会社に要求提出。工場主が病気のため、太平町の技師長宅で交渉が始まりました。その時に、大地震が襲ったのです。交渉団は二階の技師長夫人を救出したそうです。工場では交渉を見守る争議団がいたのですが、一旦は赤門寺の墓地に避難した後、解散しました。それでも三〇人が交渉委員の報告まで残りました。すでに詰めていた亀戸署特高刑事は避難民の誘導をするどころか赤門寺に逃げ込み、地震が静まったころのこのこ出てきました。そこに北島が「今頃出て来るのは卑怯だ」と追及、刑事は「警官の立場を忘れ申し訳ありません」と謝罪し、すごすごと帰って行ったそうです。
しかしその後三日に北島は広瀬自転車の近くにある南葛労働会本部(川合義虎の家、亀戸四丁目交差点そば)に集まっていたところをその刑事たち亀戸署の検束隊に検挙され、帰らぬ人になってしまいます。

刑務所にいて殺害を免れた渡辺政之輔
一九一九年には、後に共産党の委員長になる渡辺政之輔が新人セルロイド工組合を五月に結成。渡辺は一八九九年市川に生まれ亀戸の永峰セルロイド工場に勤め、新人会に入会。セルロイド工組合を結成するとともに友愛会で急進派として活躍し、平沢計七を弾劾、平沢計七は友愛会を脱会し二〇年一〇月に純労働者組合を結成します。渡辺は共産党に入党し、二二年一〇月に南葛労働会を結成、「南葛魂」のもと野田醤油争議支援でも活躍、二三年の共産党第二回大会で労働部担当の執行委員になりました。六月の第一次共産党事件で検挙され禁固一〇か月の刑により市ヶ谷の刑務所(現防衛省)に入り、九月一日を獄中で迎えました。歴史で「もし」は禁句ですが、もし渡辺が亀戸で活動を続けていたならば、彼も二四歳の誕生日の直前、亀戸事件の犠牲者になっていたに違いありません。
unih-20.jpg(亀戸 赤門寺にある亀戸事件犠牲者の碑)
 朝鮮人、中国人も多数殺された
 だいぶ前になりますが、江戸川でも「関東大震災の時子供だったが大人たちの自警団を見た」という人がいました。
 「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「火をつけている」などのデマが震災で混乱する中関東地方に飛び交いました。九月二日には戒厳令が布告され、治安維持を名目に軍隊が前面にでてきます。そこでは「不逞(ふてい)団体蜂起」を口実に朝鮮人や社会主義者を抑え込むことが目標とされ、自警団も組織されました。下町でも各所で朝鮮人や中国人が無残にも殺されました。小名木川には血だらけの死体が浮き、荒川には殺された朝鮮人が多数捨てられました。そのなかに亀戸署で警察と近衛師団によって殺された若き活動家たちの遺体があったのです。
 
【参考】
「亀戸事件・隠された権力犯罪」加藤文三著、一九九一年、大月書店
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