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下町労働運動史17 大正時代9

2012/08/01
下町ユニオンニュース 2012年8-9月合併号より

大正時代の下町労働史 その9
小畑 精武

関東大震災「亀戸事件」前夜①

関東大震災(一九二三年・大正一二年)の混乱時に有名な「亀戸事件」が起こり、当時の若き社会主義者、労働運動活動家一〇名が亀戸警察署で殺されました。同時に流言飛語が飛び交う中で多くの朝鮮人が、四人の自警団も殺されたことも忘れてはなりません。
「社会労働大事典」(二〇一一、旬報社)には「一九二三年九月三日夜、南葛労働会の川合義虎ら八人、友愛会時代からの運動家であり、労働劇団の主催者でもあった純労働者組合の平沢計七ら二人を検束した。」とあります。軍隊や警察が「殺す」ほど恐れられていた当時の東京東部・下町の労働運動、社会主義運動ですが、実際はどうだったのでしょうか?
殺された川合義虎は当時二二歳、平沢計七は最年長の三四歳、他の八人は二〇歳から二七歳までの青年たちでした。南葛というのは南葛飾郡といわれていた旧城東区(現在の亀戸、大島、砂町など)、旧向島区(吾嬬町、寺島町、隅田町)現江戸川区、現葛飾区からなる東京東部の南側の地区をさします。ちなみに南葛飾郡の郡役所は現在の江戸川区立小松川さくらホールの所でした。その文書庫が東京大空襲で焼け残り、今は世代を結ぶ平和の母子像があります。

南葛労働会の若き活動家たち
南葛労働会は前年(一九二二年)一〇月に渡辺政之輔と川合義虎によって南葛労働協会として結成されました。同年七月には日本共産党が結党されています。川合義虎は翌年四月に一五人で結成された日本共産青年同盟の初代委員長にもなりました。渡辺政之輔は後に共産党の委員長になります。渡辺政之輔は関東大震災のときは、六月の第一次共産党事件で検挙され市ヶ谷刑務所に服役中、偶然ながら亀戸事件から逃れることができました。
   南葛労働会の目的は極めてシンプルで、「本会は労働者の現実生活の向上を計るをもってその目的とす。」と規約にあります。組織は「東京府南葛飾郡およびその隣接地域に生活しあるいは就職している男女の労働者をもって組織す。」とあり、今日のコミュニティユニオンと似ています。そのうえで、地方別には「工場支部」「地方支部」「地方連合」を置き、産業別には「産業組合」と「産業組合連合会」を置き、事業として「イ現工場法の厳守、ロ工場法改正、ハ住宅不安の除去、ニ法律相談、ホ機関紙の発行、ヘ教育事業」を掲げています。
川合義虎は長野県生まれで当時二二歳、九月二日に控えていた日本最初の「国際青年デー」にむけて五月から青年同盟の組織を広めるために全国を回っていました。九月一日朝は、亀戸の広瀬自転車の争議の件で総同盟本部を訪ねた後、麻布区にある「労働組合」(共産党系の活動家組織レフトの機関誌)の発送作業をしている最中に関東大震災が発生します。発送作業には関東機械工組合の金子健太と事件で刺殺される南葛労働会の亀戸支部長で青年同盟員山岸実司(二一歳)がいました。

全国セルロイド職工組合
事件の被害者となった加藤高寿(三〇歳)は一九一九年五月に渡辺政之輔らが創立した全国セルロイド職工組合に加盟、組合員になった加藤は好きな酒や煙草をやめて、新人会(東大生らによる社会思想運動団体)機関誌「デモクラシー」を購入して仲間の労働者に配布しました。八月には葛飾・四ツ木のセルロイド職工四〇〇人を組織し全国セルロイド四ツ木支部を組織し、九月ゼネストに参加しました。しかし、解雇され産業の不振も加わり敗北におわりました。二一年には吾嬬町の足立機械製作所でストに参加、二二年一〇月に渡辺政之輔と南葛労働会を組織します。
後に江戸川区となる小松川では、近藤広造(二〇歳)が野沢電気で働いていました。上京した年の暮れに工場長と口論して解雇を言い渡されました。しかし同じ工場で働いていた渡辺政之輔、川合義虎らに助けられ解雇は撤回となり、労働運動、社会主義思想に関心を抱くようになって、できたばかりの南葛労働会の小松川支部長になりました。

【参考】①「亀戸事件‐隠された権力犯罪」、加藤文三著、一九九一年、大月書店 ②「評伝平沢計七」藤田富士男、大和田茂著、一九九六年、恒文社 ③「左翼労働組合の組織と政策」渡辺政之輔著、一九七二年、而立書房
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