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下町労働運動史16 大正時代8

2012/07/01
下町ユニオンニュース 2012年7月号より

大正時代の下町労働史 その8
小畑 精武

第一回 ILO労働会議
大正時代はわずか十五年ですが、日本資本主義が第一次世界大戦で急成長、大正元年(一九一二年)に結成された友愛会は一九一九年に大日本労働総同盟友愛会と名称を変え理事会体制がひかれ、本格的な労働組合への活動を始めた時代です。
一九二〇(大正9年)には、第一回メーデーが上野公園で開催されました。九州の八幡製鉄では「溶鉱炉の火が消える」争議、二一年には二年後の関東大震災救援に東京下町へ駆けつける賀川豊彦が指導した神戸の三菱造船所、川崎造船所の争議、四万人の街頭示威運動が展開されました。
 世界では第一次世界大戦を機に世界平和を構築するために、国際労働機関(ILO)の第一回会議が一九一九年にワシントンで開催されることになりました。会議は「一日八時間労働・週四八時間労働制」「婦人の深夜・有害作業禁止、産前・産後の休暇」「児童労働の制限、深夜・有害作業禁止」などが議題でした。

「ILOへ下町から参加?」
 実は東京モスリンの争議(大正時代下町労働史その2)で活動を始めた山内みながILO代表団の随員として市川房江から推薦されたそうです。しかし、政府が労働組合代表鈴木文治会長を労働者代表として認めなかったために、友愛会は理事である山内みなを随員とすることを承知しませんでした。
 市川房江はこのころからの女性運動、婦人参政権運動のリーダーで戦後参議院議員になります。若き菅直人が彼女の選挙運動から政治に入っていったことは有名です。
 名称を変え本格的なナショナルセンターへの道を歩み始めた大日本労働総同盟友愛会は「労働婦人」の発刊を決め、その編集に市川房江が採用されました。彼女は、ILO会議の政府代表(鎌田栄吉慶応義塾塾長)の顧問(田中孝子早稲田大学教授の夫人)が女工の実態に縁遠いため、現場の山内みなを顧問の随員にしようと動いたのです。
 友愛会や別の労働団体である信友会などは労働者代表に鳥羽造船の重役兼技師長を選んだことに抗議する集会や示威行動を行いました。市川房江たち友愛会婦人部は女性の田中顧問に「婦人労働者の声を聞かせてやろう」「注文をつけよう」と集会を企画。十月五日に開かれた会場は墨田区本所業平小学校の雨天体操場でした。翌日の報知新聞はなまなましく集会の様子を報じています。


 婦人の夜業禁止、八時間労働制を
来賓席には伊藤野枝(アナーキスト大杉栄と同棲、関東大震災時に殺害)や平塚雷鳥(女性解放誌「青鞜」を発刊、「元始、女性は太陽だった」で有名)が並び、日本髪を結った東京モスリンの菊地はつが赤ん坊をおぶって「八時間労働制を望みます」と発言。「オッカァうめえぞう」という男のヤジも出て爆笑。一七、八の靴女工は「真の労働代表者は資本主(ぬし)や学者ばかりでいけません」「夜業廃止」と発言。会場からは「ブルジョアのあんたは私たちのことはわからない」のヤジ、これに対して田中顧問は「アメリカで下女のような経験もあります」と切り返し。
 最後に一八歳の山内みなは苦しい生活と長時間深夜業廃止を訴えました。結局「皆さんの今日の要望にそうように努めたい」と田中顧問の挨拶は終わったそうです。
 この山内みなの演説から彼女に随員の話がまわってきて、会社もテンヤワンヤ!!結局労働者代表を認めない政府に抗議する友愛会の理事としてみなは「裏切れない、団結を守ろう」と決意して随員を断りました。
 会議では田中が日本の女工の深刻な夜業実態を報告したのに対して、資本代表は「国の恥を国外にさらした」と批判。しかし政府は夜業禁止を定めた一九〇六年条約への加盟を表明、会議は妊産婦の保護、十四歳(日本だけ十二歳)以下就業禁止を決議しました。肝心な八時間労働制を定めたILO第一号条約をいまだに日本は批准していません。

【参考】
「日本労働組合物語・大正」、大河内一男、松尾洋著、一九六五年、筑摩書房
「山内みな自伝」山内みな著、一九七五年、新宿書房
「炎の女・大正女性生活史」永畑道子著、一九八一年、新評論
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