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下町労働運動史2 明治時代 労働組合への道:その1

2011/04/01
下町ユニオンニュース 2011年4月号より

明治時代の下町労働史
労働組合への道:その1

小畑精武
人力車。今は浅草の観光名物ですが、明治3年(1870年)に発明された時代の先端を行く乗り物でした。「日本の下層社会」の著者横山源之助は「今日都市の労働社会に在りては、交通労働者として、交通機関の上に欠くべからざる勢力者なり」と、船舶、鉄道労働者と並んで人力車夫を評価しています。人力車は今でいえばタクシー。本所には600台の貸車を有する営業者がいました。人力車夫は最盛時数万人、1903年(明治36年)には37205人。そのうち旧15区のなかで今日の下町(東部)にあたる下谷区、浅草区、本所区、深川区には14282人と38.4%が集中していました。
おかかえ車夫は比較的高い賃金でしたが、貸車営業者のもとの車夫賃金は個人差はありますが、1日約50銭、米価が10キログラム1円12銭(現在は約4000円)ほどなので、米に比べて賃金がいかに安かったがわかります。
鉄道が1972年(明治5年)に新橋~横浜間が開通したとはいえ、市内交通の主役は人力車でした。今でも、バングラデシュの首都ダッカにはカラフルなリキシャ(人力車はツナミと同じで国際語になっています)が道路いっぱい溢れ、その数なんと300万台!明治の銀座も人力車で溢れていたのでしょう。
しかし、1882年(明治15年)には大量輸送が可能な鉄道馬車が新橋~上野~浅草間が開通、つづいて1903年(明治36年)には路面電車が品川-新橋間に開通し、失業問題に発展していきました。人力車夫たちは、「馬車をつくるのは勝手だが、天下の公道に線路をつけて、一定の場所を独占するとは不都合である、われわれは同盟して会社に向かって線路を廃止させねばならぬ」と1882年(明治15年)10月、自由民権運動を進める当時23歳の自由党の青年党員奥宮健之と人力車夫のまとめ役の三浦亀吉が中心になって、鉄道馬車反対同盟を結成。浅草の伝法院で集会を持ち、神田明神山に集まって柄杓で酒を飲み演説をしたそうです。そして結成されたのが「車会党」(社会党ではない!)です。労働組合の名前こそありませんが、人力車夫の団結組織が結成され、会員は数千人に達しました。
しかし、11月24日両国の井生村楼で大会を開き気勢を上げたところ、演説中に中止・解散が命ぜられ2000人余の聴衆は騒乱状態に陥り、さらにその4日後、奥宮と三浦らが吉原遊郭にくり込んでの帰りに巡査と喧嘩して監獄に入れられ、もろくも車会党は瓦解してしまいました。
同じ頃、石川島造船所など鉄工労働者の組合の動きも始まってます。1887年(明治20年)に、車会党と同じ会場、両国井生村楼で鉄工懇話会を開き新聞記者が演説をしたのですが、途中からバクチが始まり組合の話はご破算になってしまったそうです。
自らの酒やバクチでせっかくできた団結組織をつぶしてしまったことは、なんともったいないことか!酒や賭け事による会社の懐柔や組合つぶしの不当労働行為がまかり通ってきたことを考えると、これからのためにも教訓化が必要に思います。
その後、下町には深川に官営セメント工場(後の浅野セメント)、隅田村鐘ヶ淵に紡績工場(後の鐘紡)などが工場つくられて、やがて労働者の街に発展していきます。明治のストライキとしては、1886年(明治19年)の山梨県甲府・雨宮紡績の女工ストが最初といわれ有名ですが、1891年(明治24年)に東京の石工1300人が日給引き上げを親方に要求し同盟罷工(ストライキ)に入り勝利したことも忘れてはならない闘いです。
(参考)「日本の下層社会」(横山源之助、岩波文庫)「下層社会探訪集」(横山源之助、立花雄一編、現代教養文庫)
「日本労働組合物語・明治」(大河内一男、松尾洋、筑摩書房)

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