07月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫09月

下町労働運動史 72

2017/08/16
下町ユニオンニュース 2017年8月9月合併号より

戦前の下町労働運動史 その34
                           小畑精武
東京瓦斯(ガス)労働組合の歴史(上)

 築地市場の移転問題で脚光をあびている江東区豊洲には一九五六年から東京ガスの工場があった所です。歴史的には江東区猿江の深川製造所が古く一八九八年(明治三一年)に造られました。はじめて労働組合が結成されたのは一九一九年(大正八年)一二月です。深川、大森、芝のガス製造工場労働者五六〇人を代表する二〇〇人によって友愛会本部で結成されました。
 当時の初任給は日給四〇銭(当時の白米が高騰し一升四〇銭!)ガス製造は重労働でした。最初はむつみ会、誠心会など親睦的結合が母体となったそうです。
 ユニークなのは「組合精神及綱領」です。「一、精神 国家主義精神ヲ涵養シ共存共栄ヲ以テ組合精神ノ大本トス 二、綱領 1作業能率ノ増進ヲ図リ労働条件ノ維持改善シ生活ノ安定ト向上ヲ図ルヲ以テ目的トス 2略」
 大正期に「国家主義精神ヲ涵養シ」を真正面に掲げた「右翼的」組合は珍しかった。大正元年(一九二二年)結成の友愛会はキリスト教徒である創設者鈴木文治の影響が強くありました。名称も労働組合ではなく「友愛会」と名付けられ、①相互扶助、②識見の開発、徳性の涵養、③協同の力、地位の改善をかかげています。
201708-9.jpg

要求を実現した争議
「要求条項 1職工の人格を尊重せられたき事 2労資協調の機関を組織せられたき事、3ガス工組合を承認せられたき事 4臨時手当の増額、5各半期に二か月分給与、6月2回の有給公休、7退職金の改善など(一部略)」精神は国家主義でも要求はガス労働者の労働と生活に根ざしたものでした。
古い先輩たちと若い組合員とは思想的に一致せず経験ある先輩たちに対して歯が立ちません。それでも当時の労働運動の高揚、社会主義との結合のなかで、国家主義精神綱領は実際には空文化していきます。
 この嘆願書は各事業所に出され、十二月二七日から争議に入ります。本社では嘆願書が返され、夜から深川製造所はサボタージュに突入。ガスの圧力が下がり、警察が干渉に乗り出し、深川の組合事務所は私服刑事が取り巻き、出入りする者を尋問、身体検査をして圧力を加えました。しかし組合は賞与を一ヶ月削られたほかは交渉でほとんど獲得し、組合への加入者が日増しに増えました。

 連続した下からの争議と労組の持続
 その後関東大震災で大きな被害を受けたが救援活動に力が注がれ、徐々に一九二六年には全従業員の四分の一、組合員は一〇〇〇人に達します。そして、①退職手当の改正、②公休日の改正、③日給一〇銭値上げ、④夜勤手当の改正の嘆願書を会社に提出しましたが、受け入れられません。再び争議になります。(第二回争議)
 この争議は組合本部のスト指令によるのではなく、各職場から要求を会社につきつけ、応じない会社に対して工場毎にスト状態に入っていきました。深川、芝、千住の工場は供給不能状態となり会社は追いつめられ、退職手当改善を実現します。背景には金融恐慌にもかかわらずガス販売量増加と石炭価格の低落がありました。一九二七年の第三回争議では休暇増などの成果をあげました。

争議に警視庁が干渉
 一九二六年から従業員は一・三六倍の五三八三人、製造量は一・八倍と増加しますが、労働強化がすすみます。当時は公休日が月二回しかなく、会社の休日変更に従わなかった浅草支部の支部長が解雇され争議となりました。結果は支部長の復職は認めたものの公休日の問題は未解決のまま終決。一〇月に再び待遇改善一〇項目要求を提出。会社は拒否。そこへ警視庁が「非公式調停」と称して干渉し一〇項目要求の撤回を余儀なくされました。            (つづく)
 【参考】「東京瓦斯労働組合史‐大正八年より昭和三〇年まで‐」(東京ガス労働組合、一九五七年)
00:00 下町労働運動史 | コメント(0) | トラックバック(0)

下町労働運動史 71

2017/07/05
 
下町ユニオンニュース 2017年7月号より       小 畑 精 武
戦前の下町労働史 その三三

 東武鉄道の争議 
東武鉄道は四六三㎞の営業距離を持ち日本第二位の私鉄です。本社は本所区押上、駅はスカイツリー駅です。昔は始発駅浅草でした。(一九三一年に東武浅草駅は隅田川を渡って松屋二階へ旧浅草は業平橋となる)
一八九九年の開業時は蒸気機関車が客車を引いていました。開業間もない一九〇七年(明治四〇年)には川俣駅火夫(機関助士)がストライキ、一九一九年(大正八年)には浅草駅機関庫で機関手による待遇改善の争議がありました。
昭和のはじめの頃、東武鉄道の運転手は機関庫で教習を受けた後、指導運転手について約一か月の見習い、その後に短い区間の折り返し運転乗務につきました。電車の場合は一日の乗務は浅草と日光間を一往復半が普通でした。その上で三時間から六時間の乗務があり、朝五時に家を出て夜一〇時に帰宅する長時間労働も珍しくなかったそうです。

旅館に争議団本部
 世界大恐慌に陥った一九二九年(昭和四年)から昇給ストップ、他社に比べて低い賃金に従業員の不平不満は高まっていきます。三二年四月、労働組合はなかったのですが、本線、日光線、東上線の運転手一一〇人、車掌一五〇人、検査係四六人が不満を爆発させ争議に入りました。
201707
(杉戸・浜島旅館に陣取った争議団 『埼玉百年史』より転載)
四月二〇日に西新井、栃木、川越の三車庫主任に以下二六項目の要求を提出、二一日午後五までに回答することを求めました。戦争に動員された労働者の賃金保障や住宅手当、退職金、就業規則改悪の回復など当時の生活や職場の状況がうかがえます。
①軍隊への応召者への軍支給を除く全額支給、
②動員の場合は現職とし全額支給、除隊後は現職現級のまま復職、
③社宅料市郡部を問わず一〇円(現行六円)に、
④公傷者も③と同様に、
⑤病気による解雇強要は絶対廃止、
⑥病気欠勤中の待遇を月給者と同等に、
⑦自己退職の三割減の廃止、
⑧皆勤者の休暇増、
⑨運転手心得の初任給改善、
⑩退職金の一〇か月増、
⑪乗務時間外手当の改善、
⑫車庫内時間外のアップ、
⑬電気技手、検査係の見習期間一年に、
⑭電気技手、検査係の初任給を一円四〇銭に、
⑮昇給停止期間の昇給を四〇銭に、
⑯略、
⑰忌引きの復活、
⑱制服規定の復活、
⑲八時間労働に、
⑳略、
㉑食事時間を、
㉒略、
㉓略、
㉔略、
㉕作業所付近に井戸、便所を、
㉖春秋作業着二着を。

会社無回答、サボタージュへ
二一日午後五時に会社からの回答はありません。従業員側は激昂しサボタージュ状態に。代表六人を本社に派遣し改めて嘆願書を電気課長に提出し、翌日午前三時半まで交渉しましたが決着がつきません。
二二日午前五時始発より、本線と東上線の全線ストライキが決行されていきます。会社はストを全く予想していなかったので大混乱に陥りました。ストは姉妹会社の上毛鉄道にも飛び火。争議団は本線杉戸駅(現東武動物公園)前の浜島旅館(写真)に籠城し持久戦の準備を開始。運転手と車掌がそれぞれ会社との交渉を始めます。しかし、要求の重要事項である昇給停止分の補償、住宅手当増額、休暇増を会社は認めず、交渉決裂。

切り崩しをはね返す
会社は切り崩しを謀りますが労働者の結束は固く、陸軍当局が「応召者全額給費」を支持し政治問題化を恐れた会社は軟化。二二日夜中から杉戸署で交渉が再開し、二三日午前五時労働者側勝利で争議は終結しました。
主な要求であった、応召者への全額給費、現職復帰、住宅手当引上げ、病気退職強要は避ける、退職金三割削減の廃止、半年皆勤者への二日間休暇の保障、昇給は最低五銭以上、忌引き規定の復活、作業場付近の井戸・便所の整備など、争議犠牲者は出さないとほとんど受け入れられ、解決見舞金千円が支払われました。その後も三七、三九年と東武では労働争議が起こってます。
【参考】宮代町立図書館デジタル郷土資料
 大原社会問題研究所編「日本労働年鑑」
第一四集一九三三年版)
00:00 下町労働運動史 | コメント(0) | トラックバック(0)

下町労働運動史 70

2017/06/01
下町ユニオンニュース 2017年6月号より
小畑精武

戦前の下町労働史 その三二
東京電燈の組合再組織化(下)

 一九二七年十一月十一日に再結成された東京電燈従業員組合は、二八年三月に東京電力との合併にともなう「人員整理、配転」に対し嘆願書を提出しました。
「現実主義」を基盤に「待遇改善」と「組織拡大と充実」を目標とする要求です。
① 従業員の身分保証(a解雇は絶対にしない、b不当配転はしない)
② 労働条件改善(公傷および忌引きによる欠勤は賞与に影響させない、b現在の公休のほかに一年に連続七日間の特別休暇を、c定期昇給率の引き上げ)
③ 福利厚生制度の改善(a春秋に慰安会の開催、b会社の共済会の設置)
 これらに対して経営側は「合併後に解雇は絶対にしない、生活に重大な影響を及ぼす転勤は行わない、賞与問題も改善、特別休暇は五日支給、定昇率を引き上げる」などを回答し、従組は九割近い要求を実現しました。
さらに、無辞令者六か月以上には即時辞令を交付する、診療所増設、東電病院充実なども実現していきます。これらの成果はすべての従業員に適用され、従組の圧倒的な未組織労働者に対する影響力は高まり組合は発展拡大していきました。
201706.jpg

 しかし、これらの成果は、従組の力によると同時に会社の労務政策にもよるものでした。二八年前半にはまだ左派の関東電気労組が大きな影響力を持ち、会社は関電労にはムチで臨み従組にはアメで臨んだのです。そして二八年四月には労務課を創設します。
 関電労は「階級的」電気産業労組として東京電力(東京電燈とは別)の解散手当争議に取組み、一時は組合員は二~三〇〇人に達しました。しかし、二八年三月の共産党弾圧で西村委員長ら六人が逮捕され、弱体化していきます。また工友会という右派少数組合が外部の指導者によって作られます。従組は徹底的に「現実主義」から企業内にこだわり組合員を増やしていきました。

 外部指導を拒む
 従組はスローガンに「社外者幹部の排撃!左右の固定化反対!経済闘争第一主義!」を掲げ、着実に未組織労働者の中に根を張っていきます。関電労から「従組は会社から六〇〇円をもらっている」とのビラもまかれました。しかし従組は二七年十一月の創立大会資金七三〇円を下町第一支部二五〇円、江東支部三〇円、江東第二支部四〇円などからの借入金でまかなったのです。
 従組のリーダー佐良土英彦は著書「東電組合運動史」(一九三四)のなかで「関電労は左翼、工友会は右翼ということで未組織大衆は組合加入を躊躇(ちゅうちょ)しているのではない。外部からの指導により組合員の意識水準と無関係に本部指令が発せられた。外部者が牛耳っている組合では『ウッカリ』加入できない。」という意識状況に未組織従業員はあったととらえていたのです。

一会社一組合主義の実現
 二八年三月の東京電力との合併問題では、東力の解散手当問題で関電労は争議状態になりました。従組は争議支援を決め「応援」し、合併前日に解決しました。定年制反対でも共同して抗議しています。
二八年五月メーデーに三〇〇人がはじめて参加。三〇日には第一回定期組合大会が二二支部の代議員によって開かれ、城東3支部、江東3支部、千住2支部、下町2支部と下町は半数に迫る大きな勢力でした。
 二八年七月には関電労は下請労働者六人の解雇争議を闘い、「帝都暗黒化計画」をでっち上げられ、西村委員長はじめ幹部、活動家が逮捕(以後6年間服役)。たった二分で関電労大会は解散を命じられたのです。
 こうして東電従組は社内唯一の組合となり「一会社一組合」が実現します。闘いは続きますが、改めて取り上げたいと思います。
【参考】佐良土英彦「東電組合運動史」一九三四(非売品)河西宏祐「戦前期東京電灯従業員組合の軌跡(一九二五年~一九四〇年)」
00:00 下町労働運動史 | コメント(0) | トラックバック(0)

下町労働運動史69      

2017/05/10
下町ユニオンニュース 2017年5月号より  小畑 精武
戦前の下町労働史 その三一

東京電燈の組合再組織化(中) 
 一九二六年(大正一五年)五月一日メーデーの日に東電従組は「組合解散」を余儀なくされました。(下町変電所支部は解散に反対しています)委員長の西村祭喜と林征木の復職はなりませんでした。しかし「組合は一旦解散の止むなきに至ったが、当時勇敢に行動した諸君の胸中には、組合再組織の熱意に燃えていた。」(「東電組合運動史」佐良土英彦)のです。
 当時、共産党とその系列の労働組合に対しては治安維持法による弾圧はじめ、すさまじいものがありました。「地下鉄争議」でふれたように要求獲得の争議としてはほぼ成功したものの、一か月後にはリーダーを逮捕し、徹底した組織破壊を権力は行ったのです。

  関東電気労働組合の結成
 解雇撤回が成らなかった西村祭喜は外部から組合再組織化に着手します。九月十三日には共産党の指導の下に関東電気労働組合を結成。「縦断的」な組織では資本攻勢に対抗できないとして、企業内組合ではなく全関東の電気産業労働者が打って一丸となる「『横断的』な産業別組合」を組織します。
 一九二七年二月には会社合併にともなう九六三人の解雇問題について、以後の解雇はしないことを条件に関電労は認めました。

201705.jpg

一九二八年には、東京電燈と合併する東京電力会社の従業員による解散手当要求争議を支援し有利に解決しました。同年六月には東京電燈会社の下請労働者六人が解雇され、その解雇反対闘争に取り組みます。こうした闘争を通して二八年には千人を超える組合に成長していきます。
二月の総選挙では共産党のビラがまかれ、本部には本所、深川、小松川、千住など下町から活動的組合員が集まってきました。しかし、二八年三月十五日、共産党関係者千人を逮捕する3・15事件により西村、林等六人が逮捕されます。(四月に釈放)

  「帝都暗黒化陰謀事件」
合員二人の解雇に反対するストライキにむけて二五の職場分会で準備が進められます。浅草、千住、江東、深川、南葛など下町の五分会も八月からのスト闘争態勢に入りました。前日夜、従業員大会が上野自治会館で開かれます。入口で官憲の服装検査を受け、大会は開始間もなく解散させられ、組合幹部が組合員の前で検挙されていきました。西村たち一八人が「東京の電灯線を切って革命をおこす計画をした」として検挙され、二二人が解雇されました。いわゆる「帝都暗黒化陰謀事件」がでっち上げられたのです。(今日の共謀罪!労働組合が組織的犯罪者集団にされた!)西村は三四年まで六年間獄中に入りました。指導部を失った関東電気労組は分解し崩壊に追い込まれて行きました。
他方、産業別の関東電気労組に対し西村に批判的な佐良土英彦たちは企業内での労働組合再組織化を始めます。まずは二七年三月に施行される健康保険組合議員選挙に彼らの勢力がある変電所から議員を出すことにしました。選挙人名簿を一部抹消する失態を演じた会社に対して異議を申立てます。

  東電被保険者連盟から東電従組へ
さらに労働組合組織化に向けて被保険者連盟を創立します。連盟の規約は労働組合に準じた本部、支部、中央委員会、役員会、組織部、調査部、財政部を置き、組織活動に集中。九月には東電従業員組合創立準備会を名乗って活動を開始。下町第一支部は労組転換を即時すべきと主張しました。
二七年一一月には第二次東電従業員組合が創立されます。新組合は東電従業員の経済的利益獲得、「現実主義」を掲げ、「馘首(かくしゅ)(解雇)絶対反対!賃金値下げ絶対反対!不当転勤絶対反対!」を決議。さらに委員長制を取らずに合議制とし、組合費は三カ月ごとに報告、組合員に自由な発言を認める特長を持っていました。社内は他に関電労、東電工友会があり分裂状況。圧倒的多数を占める未組織の組合員化が迫られていました。(つづく)
      【参考】佐良土英彦「東電組合運動史」一九三四(非売品)
00:00 下町労働運動史 | コメント(0) | トラックバック(0)

下町労働運動史 68

2017/03/29
下町ユニオンニュース 2017年4月号より
 
戦前の下町労働史 その三〇
 小 畑 精 武

東京電燈の組合結成・争議(上)
 一九二六年(大正一五年)の前年二五年には普通選挙法が成立、半面で治安維持法が可決。二六年には労組結成がすすみました。
戦後東京電力となる東京電燈では前年十一月に秘かに従業員組合が結成され組織拡大を進めます。やがて組合活動は表面化し会社は組合つぶしを始め、西村祭喜委員長を呼びつけ「組合を解散するか、さもなくば辞職願を出せ」と強迫、委員長は「労働者が労働組合を組織するのは正当な権利である。それを干渉される理由もなければ、したがって組合を組織したが故に辞職する理由はない」と拒絶。四月十五日会社は二人を解雇します。
翌、一六日に二三〇名の代議員が参加して「電気産業の社会的使命を完全に果たすための生活の安定と向上」を宣言し創立大会を開催。本部を下谷区御徒町におきます。翌日本社に①組合を承認すること、②組合結成にあたり犠牲者を出さないこと、③従業員の待遇改善の嘆願書を提出しました。会社の組合つぶしを職場の組合員ははねつけます。四月二二日、会社社長と副社長の二人と組合代表一二名による交渉が行われ、翌二三日の回答は、「組合は認めない、要求条件を明示せよ」というもので期待を裏切るものでした。
 組合から「東京市電気局(市電)では組合を認めているではないか」と詰めるも「組合承認は団体交渉権を認めることになる」(戦後の日本国憲法ではあたりまえ!)と会社は拒否。結局以下の回答が示されます。①重大問題なので時期を待つ(今は組合を認めない)
②一とからむので言明できない、③趣旨にそって努力する。これでは組合は納得できません。交渉を打ち切ります。

  組合結成を認めない会社
 こうした状況は、逐次警視庁から内務大臣や東京警備司令官などに報告されました。官憲は組合の裏に「政治研究会」があって画策し「そうとう紛糾する」ととらえていました。組合は、社長との交渉が実現したことをもって「過去半年間の隠忍持久的組織運動の結果、公明正大な主張のもとに組合が承認されるに至った」と評価し、「組合加入は自由になった」と、加入を呼びかけるチラシ「申込殺到!未だ加入せざる従業員諸君!即刻加入せよ!東電従業員組合に団結せよ!」と職場ビラと同時に市民も一万枚のチラシを四〇人で戸別配布します。しかし、会社はなかなか組合を承認せず組合切り崩しを続けます。
201704.jpg


 組合は二四日に浅草のお寺で従業員大会を開催。「組合加入者への圧迫をしないこと、犠牲解雇者を復職すること、初任給の引き上げ」など新たに五項目を要求します。事態は緊張し、組合は本部近くに争議本部を借り、支援を訴えます。これに呼応して日本労働組合連盟本部が抗議書を会社に提出。組合大会では、総同盟、東京市電自治会(島上善五郎)、東京市従などが激励に駆けつけます。

  苦渋の選択「組合解散」
 二八日には一部職場がストに突入。会社は「全市を暗黒化するストライキ」を挑発。組合は市民向けの「東電会社は全市を真暗闇にせんとす」を三万枚配布。自動車隊は職場オルグへ。会社は「二四時間以内の争議団解散、さもなければ解雇もありうる」と最後通告し組合は追いつめられていきます。
ここに支援してきた争議経験豊富な東京市電自治会が仲介役として登場。「争議の目的は従業員の待遇改善にある。会社との最大の争点である組合認知問題で譲歩して、いったん組合を解散してもまた立ち上がることは可能だ」との助言があり受け入れます。
五月一日会社は①労働条件は改善、②組合参加者の解雇はしない、③争議中の欠勤は出勤とする覚書をつくり、争議解決金七五〇〇円を払うことになります。こうして従組は解散となります。「一歩前進・二歩後退」の結成でしたが後日再び従業員組合として団結し闘いに立ち上がることになります。
   【参考】佐良土英彦「東電組合運動史」一九三四(非売品)
        法政大大原社研「警視総監の内務大臣宛報告書」
00:00 下町労働運動史 | コメント(0) | トラックバック(0)
 | HOME | Next »