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下町労働運動史74

2017/10/31
下町ユニオンニュース 2017年11月号より
                                                       小 畑 精 武
戦前の下町労働史 その三六
  東京瓦斯(ガス)労働組合の歴史(下)


 停年制反対闘争
 官憲が監視する中で第二回大会が開かれ国家主義的な綱領を改め、無産政党(全国大衆党)への入党運動推進、待遇低下馘首絶対反対、二重賃金制度撤廃とともに「停年制実施反対」を掲げました。また、ガス工組合の産業労働組合の全国的統一を打ち出します。
 停年制実施についてはすでに一九二七年から取組み、①停年年齢五五歳、②退職手当の増加停年退職時の一〇割加算などを要求しました。組合は、「停年解雇後の生活保証であり権利」と位置づけ、完全に闘うことと位置づけていたのです。
 これに対して労務体制を強化してきた会社の回答(一九三一年六月)は、①停年年齢五〇歳、②会社案の基本給与、③停年退職後における生活保証期間(本人一九年、妻二六年、末子扶養七年、計五二年、生活費一人一か月十五円、金利年6分)というものでした。まさに「停年退職金は老後の生活保証費」で今では考えられません。
 
組合の自主的停年制と大衆的闘い
組合の闘争委員会は①年齢は五四歳、②退職理由による割増二割、③実施までの猶予は一年という組合の自主的停年制案を示しました。この案を作成するときに神田の四支部は本所公会堂で検討、池袋支部は軟弱と批判し一時組合から離れます。

             定年制反対ビラ

 会社は停年五三歳を回答しますが組合は拒否。闘争委員会が強化され、池袋支部が復帰、闘争資金も計上され実力行使も辞さない態勢をつくります。これに対して警視庁は干渉に乗りだしました。会社との交渉に四、五人の警官が立会い、圧力をかけました。しかし、組合は屈しません。組合員は本部に続々と詰めかけ、各職場では指令を待ちつつ集会や構内デモを繰り返しました。
こうして、八月に組合と会社は、①停年五三歳、②退職手当の大巾引き上げ、③割増・死亡及び停年満了の場合基本給額の二割増など「停年制実施の覚書」を結び解決に至ります。しかし、ここには日給雇員と傭員との格差が残りました。
 六〇日におよぶ闘いについて組合は「組合員の行動は多くの各支部独自の行動によって規律され、一つの要求にまとめられ統一的な行動として全然効果が表示されなかったとはいえ、大衆的反抗が激烈に下から要求されたことは事実である。」と組合幹部の統一的指導の不十分さを総括しつつも、「一応の勝利」と総括しています。

 企業合理化と社外工問題
 組合は、停年制実施を「人減らし、解雇、賃下げ合理化」の一端ととらえていました。会社は一九三一年一一月に、今後従業員の補充は職工の採用を避け、人夫もしくは社外工をもってする方針を明らかにしたからです。
今日でいう正規雇用の縮小・非正規雇用労働者の拡大です。これまでも社外工、人夫は補助的作業に従事する労働者として採用されていました。二九年からは企業合理化の直接的解雇の対象になり、争議にもなっています。しかし組合全体の支援は不十分でした。支部による支援に留まったのです。
 組合は社外工問題を「合理的な従業員整理」ととらえ、さらに闘争の場合にはスキャップ(スト破り)になると考えました。ここから、社外工即時撤廃と社外工の組織化という二つの傾向が支部に生まれます。
 やがて、「過剰人員整理絶対反対」「社外工制度即時撤廃」に統一されます。社外工・人夫の組合結成を指導する支部も出てきますが、会社の合理化圧力は強く組合は統一的具体的な対策を打てないで終わりました。
労働運動の戦闘化の中で労働戦線統一の動きが「労働クラブ」として現れます。組合はクラブが「右傾化」をもたらすものとして東京市従などと労働クラブ排撃運動を進めました。しかし分裂の危機を迎えます。            
    【参考】「東京瓦斯労働組合史‐大正八年より昭和三〇年まで‐」(東京ガス労働組合、一九五七年)
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下町労働運動史 73

2017/09/28
下町ユニオンニュース 2017年10月号より
                                 小 畑 精 武
戦前の下町労働史 その三五
 東京瓦斯(ガス)労働組合の歴史(中)
 一九二九年(高橋治巳初代江戸川ユニオン委員長が生まれた年)世界恐慌の波の中で産業合理化が進み、操業短縮、解雇、失業者が増加(三二万人)し、争議も一四二〇件と前年一九二八年の五〇%増しとなり、さらに三〇年には倍加し参加者も八〇数万人になります。小作争議も二九年に二四〇〇件に達しました。こうした状況下で東京市電や東洋モスリン争議が闘われました。争議は合法化されておらず常に官憲の監視のもとに闘われ検挙が横行し、組合大会ですら警察官が監視し「弁士中止」が連発されました。(写真)
2017-10
官憲が臨席した第2回大会

 鶴見新工場で組合支部建設に成功
 東京ガスでは二九年に増資が中断し、ガス需要が低迷、産業合理化をすすめ、労務管理体制を強化していきます。対する東京ガス労組も新たな体制に対応する陣形をつくっていきます。三〇年には鶴見に他の工場の合計製造量を上回る大工場が建設され、会社は新規従業員をガス労組に加入させないために御用組合を組織しました。
 組合は、個人説得、宣伝ビラはじめあらゆる戦術を用いて組合加入を呼びかけます。組合は供給関係の組合員を使って鶴見工場内入り込みオルグと支部建設をすすめ、三〇年三月に全員が加盟する鶴見支部が発足しました。

 深川仏教会館で第一回大会
四月六日第一回大会が深川で開かれます。一七〇名の各支部代議員が出席、傍聴者を含め立錐の余地がないほどの盛況でした。しかしここでも州崎警察がものものしく警備するなかで開かれたのです。
「・・・今や資本主義の攻勢は我が無産階級の上に猛然とその鉾先を向けて迫ってきた。資本家本位に組み立てられた金解禁産業の合理化等は実に彼らの巧妙なる無産階級へ対する挑戦である。・・」とし「八時間労働制の実施、労働組合法の確立を期す。」という大会宣言を採択し、一九の本部提案の大会決議を活発な討議を経て決議しました。
以下の大会決議から当時の労働組合がどのような要求をしていたのかを知ることができます。
①兵役の義務に関する件
② 共済会規定改正の件
③ 八時間制実施の件
④ 退職手当給与規定改正の件
⑤ 会社都合における職制変更による収入減反対
⑥ 忌引き休業給与の件
⑦ 精勤休暇要求の件
⑧ 組合法制定要求提出の件
⑨ 資本主義産業合理化絶対反対の件
⑩ 無産党入党の件 (論議尽きず委員付託・次期大会に上程)
⑪ 瓦斯従業員単一組合組織の件
⑫ メーデー参加の件(以下略)
この他に⑱に本部事務所設置の件があり大会後深川製造所の近くに「あまり広くない店舗向きの二階建て家屋」を借りて事務所とします。専従者は置きませんでした。

  警官監視の中で第二回組合大会
 一九三一年に開かれた第二回大会は、四五〇〇人の組合員、前年の東洋モスリンやお大島製鋼争議にみられるような労働運動の盛り上がりの中で開かれます。前年の東洋モスリン争議支援にはガス労組からも参加、一七人が検束されました。この年のメーデーの参加者は全国で三七、五〇〇人、ガス組合は組合員の約三分の一、一三四七人が参加、大きな盛り上がりをみせます。
 大会は、干渉する警官五〇人がゲートルで武装、出入り組合員を一人ひとり厳重に身体検査。指揮の警官は四、五人の警官を従え演壇に陣取り、祝辞や激励挨拶に出る弁士に次々と演説中止、それでも日曜の午後一時から夜一〇時までぶっ通しで行われ、大会宣言を可決し、停年制反対闘争に入っていきます。 
                (つづく)
 【参考】「東京瓦斯労働組合史‐大正八年より昭和三〇年まで‐」(東京ガス労働組合、一九五七年)
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下町労働運動史 72

2017/08/16
下町ユニオンニュース 2017年8月9月合併号より

戦前の下町労働運動史 その34
                           小畑精武
東京瓦斯(ガス)労働組合の歴史(上)

 築地市場の移転問題で脚光をあびている江東区豊洲には一九五六年から東京ガスの工場があった所です。歴史的には江東区猿江の深川製造所が古く一八九八年(明治三一年)に造られました。はじめて労働組合が結成されたのは一九一九年(大正八年)一二月です。深川、大森、芝のガス製造工場労働者五六〇人を代表する二〇〇人によって友愛会本部で結成されました。
 当時の初任給は日給四〇銭(当時の白米が高騰し一升四〇銭!)ガス製造は重労働でした。最初はむつみ会、誠心会など親睦的結合が母体となったそうです。
 ユニークなのは「組合精神及綱領」です。「一、精神 国家主義精神ヲ涵養シ共存共栄ヲ以テ組合精神ノ大本トス 二、綱領 1作業能率ノ増進ヲ図リ労働条件ノ維持改善シ生活ノ安定ト向上ヲ図ルヲ以テ目的トス 2略」
 大正期に「国家主義精神ヲ涵養シ」を真正面に掲げた「右翼的」組合は珍しかった。大正元年(一九二二年)結成の友愛会はキリスト教徒である創設者鈴木文治の影響が強くありました。名称も労働組合ではなく「友愛会」と名付けられ、①相互扶助、②識見の開発、徳性の涵養、③協同の力、地位の改善をかかげています。
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要求を実現した争議
「要求条項 1職工の人格を尊重せられたき事 2労資協調の機関を組織せられたき事、3ガス工組合を承認せられたき事 4臨時手当の増額、5各半期に二か月分給与、6月2回の有給公休、7退職金の改善など(一部略)」精神は国家主義でも要求はガス労働者の労働と生活に根ざしたものでした。
古い先輩たちと若い組合員とは思想的に一致せず経験ある先輩たちに対して歯が立ちません。それでも当時の労働運動の高揚、社会主義との結合のなかで、国家主義精神綱領は実際には空文化していきます。
 この嘆願書は各事業所に出され、十二月二七日から争議に入ります。本社では嘆願書が返され、夜から深川製造所はサボタージュに突入。ガスの圧力が下がり、警察が干渉に乗り出し、深川の組合事務所は私服刑事が取り巻き、出入りする者を尋問、身体検査をして圧力を加えました。しかし組合は賞与を一ヶ月削られたほかは交渉でほとんど獲得し、組合への加入者が日増しに増えました。

 連続した下からの争議と労組の持続
 その後関東大震災で大きな被害を受けたが救援活動に力が注がれ、徐々に一九二六年には全従業員の四分の一、組合員は一〇〇〇人に達します。そして、①退職手当の改正、②公休日の改正、③日給一〇銭値上げ、④夜勤手当の改正の嘆願書を会社に提出しましたが、受け入れられません。再び争議になります。(第二回争議)
 この争議は組合本部のスト指令によるのではなく、各職場から要求を会社につきつけ、応じない会社に対して工場毎にスト状態に入っていきました。深川、芝、千住の工場は供給不能状態となり会社は追いつめられ、退職手当改善を実現します。背景には金融恐慌にもかかわらずガス販売量増加と石炭価格の低落がありました。一九二七年の第三回争議では休暇増などの成果をあげました。

争議に警視庁が干渉
 一九二六年から従業員は一・三六倍の五三八三人、製造量は一・八倍と増加しますが、労働強化がすすみます。当時は公休日が月二回しかなく、会社の休日変更に従わなかった浅草支部の支部長が解雇され争議となりました。結果は支部長の復職は認めたものの公休日の問題は未解決のまま終決。一〇月に再び待遇改善一〇項目要求を提出。会社は拒否。そこへ警視庁が「非公式調停」と称して干渉し一〇項目要求の撤回を余儀なくされました。            (つづく)
 【参考】「東京瓦斯労働組合史‐大正八年より昭和三〇年まで‐」(東京ガス労働組合、一九五七年)
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下町労働運動史 71

2017/07/05
 
下町ユニオンニュース 2017年7月号より       小 畑 精 武
戦前の下町労働史 その三三

 東武鉄道の争議 
東武鉄道は四六三㎞の営業距離を持ち日本第二位の私鉄です。本社は本所区押上、駅はスカイツリー駅です。昔は始発駅浅草でした。(一九三一年に東武浅草駅は隅田川を渡って松屋二階へ旧浅草は業平橋となる)
一八九九年の開業時は蒸気機関車が客車を引いていました。開業間もない一九〇七年(明治四〇年)には川俣駅火夫(機関助士)がストライキ、一九一九年(大正八年)には浅草駅機関庫で機関手による待遇改善の争議がありました。
昭和のはじめの頃、東武鉄道の運転手は機関庫で教習を受けた後、指導運転手について約一か月の見習い、その後に短い区間の折り返し運転乗務につきました。電車の場合は一日の乗務は浅草と日光間を一往復半が普通でした。その上で三時間から六時間の乗務があり、朝五時に家を出て夜一〇時に帰宅する長時間労働も珍しくなかったそうです。

旅館に争議団本部
 世界大恐慌に陥った一九二九年(昭和四年)から昇給ストップ、他社に比べて低い賃金に従業員の不平不満は高まっていきます。三二年四月、労働組合はなかったのですが、本線、日光線、東上線の運転手一一〇人、車掌一五〇人、検査係四六人が不満を爆発させ争議に入りました。
201707
(杉戸・浜島旅館に陣取った争議団 『埼玉百年史』より転載)
四月二〇日に西新井、栃木、川越の三車庫主任に以下二六項目の要求を提出、二一日午後五までに回答することを求めました。戦争に動員された労働者の賃金保障や住宅手当、退職金、就業規則改悪の回復など当時の生活や職場の状況がうかがえます。
①軍隊への応召者への軍支給を除く全額支給、
②動員の場合は現職とし全額支給、除隊後は現職現級のまま復職、
③社宅料市郡部を問わず一〇円(現行六円)に、
④公傷者も③と同様に、
⑤病気による解雇強要は絶対廃止、
⑥病気欠勤中の待遇を月給者と同等に、
⑦自己退職の三割減の廃止、
⑧皆勤者の休暇増、
⑨運転手心得の初任給改善、
⑩退職金の一〇か月増、
⑪乗務時間外手当の改善、
⑫車庫内時間外のアップ、
⑬電気技手、検査係の見習期間一年に、
⑭電気技手、検査係の初任給を一円四〇銭に、
⑮昇給停止期間の昇給を四〇銭に、
⑯略、
⑰忌引きの復活、
⑱制服規定の復活、
⑲八時間労働に、
⑳略、
㉑食事時間を、
㉒略、
㉓略、
㉔略、
㉕作業所付近に井戸、便所を、
㉖春秋作業着二着を。

会社無回答、サボタージュへ
二一日午後五時に会社からの回答はありません。従業員側は激昂しサボタージュ状態に。代表六人を本社に派遣し改めて嘆願書を電気課長に提出し、翌日午前三時半まで交渉しましたが決着がつきません。
二二日午前五時始発より、本線と東上線の全線ストライキが決行されていきます。会社はストを全く予想していなかったので大混乱に陥りました。ストは姉妹会社の上毛鉄道にも飛び火。争議団は本線杉戸駅(現東武動物公園)前の浜島旅館(写真)に籠城し持久戦の準備を開始。運転手と車掌がそれぞれ会社との交渉を始めます。しかし、要求の重要事項である昇給停止分の補償、住宅手当増額、休暇増を会社は認めず、交渉決裂。

切り崩しをはね返す
会社は切り崩しを謀りますが労働者の結束は固く、陸軍当局が「応召者全額給費」を支持し政治問題化を恐れた会社は軟化。二二日夜中から杉戸署で交渉が再開し、二三日午前五時労働者側勝利で争議は終結しました。
主な要求であった、応召者への全額給費、現職復帰、住宅手当引上げ、病気退職強要は避ける、退職金三割削減の廃止、半年皆勤者への二日間休暇の保障、昇給は最低五銭以上、忌引き規定の復活、作業場付近の井戸・便所の整備など、争議犠牲者は出さないとほとんど受け入れられ、解決見舞金千円が支払われました。その後も三七、三九年と東武では労働争議が起こってます。
【参考】宮代町立図書館デジタル郷土資料
 大原社会問題研究所編「日本労働年鑑」
第一四集一九三三年版)
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下町労働運動史 70

2017/06/01
下町ユニオンニュース 2017年6月号より
小畑精武

戦前の下町労働史 その三二
東京電燈の組合再組織化(下)

 一九二七年十一月十一日に再結成された東京電燈従業員組合は、二八年三月に東京電力との合併にともなう「人員整理、配転」に対し嘆願書を提出しました。
「現実主義」を基盤に「待遇改善」と「組織拡大と充実」を目標とする要求です。
① 従業員の身分保証(a解雇は絶対にしない、b不当配転はしない)
② 労働条件改善(公傷および忌引きによる欠勤は賞与に影響させない、b現在の公休のほかに一年に連続七日間の特別休暇を、c定期昇給率の引き上げ)
③ 福利厚生制度の改善(a春秋に慰安会の開催、b会社の共済会の設置)
 これらに対して経営側は「合併後に解雇は絶対にしない、生活に重大な影響を及ぼす転勤は行わない、賞与問題も改善、特別休暇は五日支給、定昇率を引き上げる」などを回答し、従組は九割近い要求を実現しました。
さらに、無辞令者六か月以上には即時辞令を交付する、診療所増設、東電病院充実なども実現していきます。これらの成果はすべての従業員に適用され、従組の圧倒的な未組織労働者に対する影響力は高まり組合は発展拡大していきました。
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 しかし、これらの成果は、従組の力によると同時に会社の労務政策にもよるものでした。二八年前半にはまだ左派の関東電気労組が大きな影響力を持ち、会社は関電労にはムチで臨み従組にはアメで臨んだのです。そして二八年四月には労務課を創設します。
 関電労は「階級的」電気産業労組として東京電力(東京電燈とは別)の解散手当争議に取組み、一時は組合員は二~三〇〇人に達しました。しかし、二八年三月の共産党弾圧で西村委員長ら六人が逮捕され、弱体化していきます。また工友会という右派少数組合が外部の指導者によって作られます。従組は徹底的に「現実主義」から企業内にこだわり組合員を増やしていきました。

 外部指導を拒む
 従組はスローガンに「社外者幹部の排撃!左右の固定化反対!経済闘争第一主義!」を掲げ、着実に未組織労働者の中に根を張っていきます。関電労から「従組は会社から六〇〇円をもらっている」とのビラもまかれました。しかし従組は二七年十一月の創立大会資金七三〇円を下町第一支部二五〇円、江東支部三〇円、江東第二支部四〇円などからの借入金でまかなったのです。
 従組のリーダー佐良土英彦は著書「東電組合運動史」(一九三四)のなかで「関電労は左翼、工友会は右翼ということで未組織大衆は組合加入を躊躇(ちゅうちょ)しているのではない。外部からの指導により組合員の意識水準と無関係に本部指令が発せられた。外部者が牛耳っている組合では『ウッカリ』加入できない。」という意識状況に未組織従業員はあったととらえていたのです。

一会社一組合主義の実現
 二八年三月の東京電力との合併問題では、東力の解散手当問題で関電労は争議状態になりました。従組は争議支援を決め「応援」し、合併前日に解決しました。定年制反対でも共同して抗議しています。
二八年五月メーデーに三〇〇人がはじめて参加。三〇日には第一回定期組合大会が二二支部の代議員によって開かれ、城東3支部、江東3支部、千住2支部、下町2支部と下町は半数に迫る大きな勢力でした。
 二八年七月には関電労は下請労働者六人の解雇争議を闘い、「帝都暗黒化計画」をでっち上げられ、西村委員長はじめ幹部、活動家が逮捕(以後6年間服役)。たった二分で関電労大会は解散を命じられたのです。
 こうして東電従組は社内唯一の組合となり「一会社一組合」が実現します。闘いは続きますが、改めて取り上げたいと思います。
【参考】佐良土英彦「東電組合運動史」一九三四(非売品)河西宏祐「戦前期東京電灯従業員組合の軌跡(一九二五年~一九四〇年)」
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