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下町労働運動史 68

2017/03/29
下町ユニオンニュース 2017年4月号より
 
戦前の下町労働史 その三〇
 小 畑 精 武

東京電燈の組合結成・争議(上)
 一九二六年(大正一五年)の前年二五年には普通選挙法が成立、半面で治安維持法が可決。二六年には労組結成がすすみました。
戦後東京電力となる東京電燈では前年十一月に秘かに従業員組合が結成され組織拡大を進めます。やがて組合活動は表面化し会社は組合つぶしを始め、西村祭喜委員長を呼びつけ「組合を解散するか、さもなくば辞職願を出せ」と強迫、委員長は「労働者が労働組合を組織するのは正当な権利である。それを干渉される理由もなければ、したがって組合を組織したが故に辞職する理由はない」と拒絶。四月十五日会社は二人を解雇します。
翌、一六日に二三〇名の代議員が参加して「電気産業の社会的使命を完全に果たすための生活の安定と向上」を宣言し創立大会を開催。本部を下谷区御徒町におきます。翌日本社に①組合を承認すること、②組合結成にあたり犠牲者を出さないこと、③従業員の待遇改善の嘆願書を提出しました。会社の組合つぶしを職場の組合員ははねつけます。四月二二日、会社社長と副社長の二人と組合代表一二名による交渉が行われ、翌二三日の回答は、「組合は認めない、要求条件を明示せよ」というもので期待を裏切るものでした。
 組合から「東京市電気局(市電)では組合を認めているではないか」と詰めるも「組合承認は団体交渉権を認めることになる」(戦後の日本国憲法ではあたりまえ!)と会社は拒否。結局以下の回答が示されます。①重大問題なので時期を待つ(今は組合を認めない)
②一とからむので言明できない、③趣旨にそって努力する。これでは組合は納得できません。交渉を打ち切ります。

  組合結成を認めない会社
 こうした状況は、逐次警視庁から内務大臣や東京警備司令官などに報告されました。官憲は組合の裏に「政治研究会」があって画策し「そうとう紛糾する」ととらえていました。組合は、社長との交渉が実現したことをもって「過去半年間の隠忍持久的組織運動の結果、公明正大な主張のもとに組合が承認されるに至った」と評価し、「組合加入は自由になった」と、加入を呼びかけるチラシ「申込殺到!未だ加入せざる従業員諸君!即刻加入せよ!東電従業員組合に団結せよ!」と職場ビラと同時に市民も一万枚のチラシを四〇人で戸別配布します。しかし、会社はなかなか組合を承認せず組合切り崩しを続けます。
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 組合は二四日に浅草のお寺で従業員大会を開催。「組合加入者への圧迫をしないこと、犠牲解雇者を復職すること、初任給の引き上げ」など新たに五項目を要求します。事態は緊張し、組合は本部近くに争議本部を借り、支援を訴えます。これに呼応して日本労働組合連盟本部が抗議書を会社に提出。組合大会では、総同盟、東京市電自治会(島上善五郎)、東京市従などが激励に駆けつけます。

  苦渋の選択「組合解散」
 二八日には一部職場がストに突入。会社は「全市を暗黒化するストライキ」を挑発。組合は市民向けの「東電会社は全市を真暗闇にせんとす」を三万枚配布。自動車隊は職場オルグへ。会社は「二四時間以内の争議団解散、さもなければ解雇もありうる」と最後通告し組合は追いつめられていきます。
ここに支援してきた争議経験豊富な東京市電自治会が仲介役として登場。「争議の目的は従業員の待遇改善にある。会社との最大の争点である組合認知問題で譲歩して、いったん組合を解散してもまた立ち上がることは可能だ」との助言があり受け入れます。
五月一日会社は①労働条件は改善、②組合参加者の解雇はしない、③争議中の欠勤は出勤とする覚書をつくり、争議解決金七五〇〇円を払うことになります。こうして従組は解散となります。「一歩前進・二歩後退」の結成でしたが後日再び従業員組合として団結し闘いに立ち上がることになります。
   【参考】佐良土英彦「東電組合運動史」一九三四(非売品)
        法政大大原社研「警視総監の内務大臣宛報告書」
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下町労働運動史67 (番外編)

2017/03/01
下町ユニオンニュース 2017年3月号より

番外編「元祖8時間労働制」の国オーストラリア

小畑精武

世界一のトラムネットワーク
 
 二人目の孫が生まれ、三年ぶりにオーストラリア・メルボルンに約一カ月行ってきました。江戸川区労協のメンバーとしてオーストラリアを最初に訪れた一九八六年、娘の結婚式に参列した二〇〇五年と何度か来ました。メルボルンは「公園の中に街がある」といわれる落ち着いた街です。何よりも私が好きなトラム(路面電車)が今でも縦横無尽に市内を走っています。その延長㌔は二五〇㎞に達し世界最大を誇っています。
トラム

民間委託されていますが、都心部(シティ)は無料。シティを一周する観光用トラムもあり、あたかも横に動くエスカレーターです。
 日本の東京交通労働組合も強い組合として戦前からがんばってきましたが、メルボルンのトラム労組も強い組合です。車掌が廃止されるときには銀座のようなメインストリートにトラムを並べるストライキを闘いました。残念ながら一人乗務になりましたが、運転手は今でも車掌業務はせず運転に専念しています。多文化・多民族社会、男女共生社会にふさわしく、運転手も多民族で女性も目立ちます。八六年に訪問した時、職場に「英語教室」の案内が貼られていたのを思い出しました。
888タワー

トラムのシティラインの外側には「旧刑務所」が観光用に保存され、その隣には「888タワー」(写真)が青空にそびえ建ち、交差点のはす向かいには歴史を感じさせる砂岩の立派な「トレード・ホール」があります。八六年の地図には「貿易会館」と訳されていました。これは間違い!トレードは貿易と訳すこともできますが、この場合は「トレード・ユニオン」の「労働会館」が正解ですね。

労働運動指導者が流されてきた 
 「刑務所」「888タワー」「労働会館」をつなぐ輪が「労働運動」です。
日本では封建制の江戸時代、一七八八年のイギリスでは、それまで死刑だった一九の罪が流刑に変えられ、流刑囚は植民労働者になっていきます。今回「19 crimes(19の罪)」という安いワインを飲み、そのラベルから知りました。一八三三年にはイギリスの農業労働者が賃上げを要求し弾圧を受け、流刑地であったオーストラリアに流されます。
本国イギリスでは一九世紀初頭に「団結禁止法」が制定され、普通選挙法制定をめざすチャーチスト運動が高揚していました。団結禁止法は、賃上げや労働時間短縮、ストの計画、不法な集会の計画や参加(何か共謀罪に似ている?)した労働者に最低三カ月の禁固刑、二カ月の重労働を課しました。
一九世紀の半ばになるとゴールドラッシュにオーストラリアは湧き、人口が増え、建物も増加し、建設労働者が増大し、人手不足になっていきます。ラッシュ以前にすでに一〇〇を超える労働組合が結成されてます。

「888タワー」の意味は?
 一八五六年四月メルボルン大学建設現場で働いていた石工労働者は道具を投げ出し、8時間労働制を要求して植民地議会まで市内を練り歩きました。ストライキに入ったのです。そして賃金カットなしで時間短縮・8時間労働制を五月に勝ち取ります。
 タワーの最上部には「8・8・8」「LABOUR、RECREATION、REST」が刻まれています。「LABOUR(労働)に8時間、RECREATION(元気回復)に8時間、REST(休息・睡眠)に8時間」は初期社会主義者であるロバート・オーエンが唱えていた8時間主義の実践です。
こうした運動の高揚を背景にメルボルンの労働組合は、一八七四年現在地にトレード・ホールを建設しました。さらに刑務所と労働会館の間に「888タワー」を記念碑として建設したのです。

【参考】「オーストラリア労働党の歴史」(B・マッキンレイ、加茂恵美子訳、勁草書房、一九八六)
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下町労働運動史 66

2017/02/04
下町ユニオンニュース 2017年2月号より

戦前の下町労働運動史 その29
                                        小畑精武
地下鉄争議・もぐらのうた・下
 一九三一年一二月の組合結成以降、便所がないなど切実な問題をかかえた女性たちは、
「給料を男子並みの最低一円一五銭、便所を各駅に、出札手当三円、生理休一週間、事務服夏冬二着」など要求を討議、カムフラージュに三味線をつまびいたそうです。三二年三月一二日には駅員、一五日には車掌、運転手のストライキ準備委員を選出、要求討議を終了します。

 スト決行!車庫占拠へ
ストライキの方針討議は郊外のある家で行われ、全協永田オルグはじめ、市電、国鉄などのオルグも参加しました。全協系労組の指導は非合法の共産党です。車庫の出入り口を車両で封鎖する戦術を討議するなど秘密裏にきめ細かい準備が進められました。
「ストライキの場所として車庫を占領する、スト費用として三日分を集め一週間から一〇日の決死的闘争を頑張る、闘争日誌を発行して全員の意見を反映させる、応援委員会をつくる、未組織へのビラまき、家族を引き込む、食料品の買い込み、無産者診療所との連絡、弁護団との連絡、市民へのゲキ、警備隊の編成、電気、掃除、変電所などへの闘争拡大」などを討議決定します。
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スト決行日が一九日と決まり、車庫占拠へ電車を地下から地上車庫へ出る所に止め、食料品を積み込みます。車両は全部で四両。一両車が闘争車、二両車が女子部、三両車が中央部(各専門部、食料部)、四両車が休憩車です。
二〇日午前一時半にすべての準備が整い、全従業員大会が開かれました。争議団の結成が宣言され、団長(男子津野勇)副団長(女子赤塚正子)を選出。自衛団長、五班の班長を決め、警備を車に配置し、大会では要求が確認されていきます。午前二時に嘆願書としてまとめた要求書を運輸課へ提出しました。しかし、監督がいたものの電話が通じないので、午前五時ごろに再開を約束して交渉委員は引上げます。

 籠城電車内は解放区
二〇日午前六時の始発から浅草・神田間の電車はストップ。ストには「俺たちにも不満があるんだ」と電気や清掃から新たな参加者が加わります。電車の先頭には赤旗が立ち、青い美しい早春の夜明けの空に、労働者のたたかいの旗が上がりました。
籠城電車のなかは解放区のように、メーデー歌、団結のうた、赤旗のうたと、何でも自由です。踏切には人垣ができ、その中にはカンパをしてくれる労働者がいました。
二一日の新聞はいっせいに「突然の争議に会社大狼狽、全車両は車庫に缶詰、手の下しようがない」と「地下鉄罷業」を取り上げます。警官も増え八〇人余に。会社は何とか電車を動かそうとしましたが、思うようにいきません。

 組合大勝利!一か月後に大弾圧
電車のなかで交渉が始まります。警視庁の調停課長や地元警察署長などが立会い交渉は三回ほど行われました。会社は「出征兵士に軍隊から支給される金額を引いた給料全額を支給する」など譲歩をしてきます。しかし、組合員の団結は固く、女子の生理休暇」など未解決のまま交渉は決裂。二三日には会社は巻き上げ機を使って籠城電車を強引に引っ張り上げようとします。争議団はバット、木刀などで必死に抵抗し、にらみ合いになります。やがてみぞれが降ってきました。
二三日夜警視庁のあっ旋が入り、会社は大譲歩をします。「上野駅に便所を設ける、女子出札手当二円、トンネル手当二円」など二一の解決条件を示し、七人の交渉委員は電車に持ち帰ります。「万歳、万歳」の声が籠城電車の天井をゆるがし、労働者の大勝利に終わりました。
しかし、一か月後に闘争の中心を担った男女四六人が官憲によって逮捕され、組織はたちまち崩壊してしまいました。
 参考にした「もぐらのうた‐1932年東京地下鉄争議記録集」(学習の友社一九八七年)は当事者による貴重な記録集です
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下町労働運動史 65

2017/01/01
下町ユニオンニュース 2017年1月号より

戦前の下町労働史 その二八    小 畑 精 武
 
 地下鉄争議・もぐらのうた・中

 警視庁が調停に入って解決した一九二八年、会社は労務対策として社内の相互扶助組織・茶話会をつくります。一九三〇年には市電の労働者が変装して「労働時間は六時間、最低賃金を二円にしろ」というガリ版ビラを改札に置いていきました。会社はあわてて「市電はストがある。ストをやる奴はバカだ。全線開通したら社宅も建てるからつまらない扇動にのらないように」と非番を集めて訓示を述べました。しかし、みんなはかえって、会社が儲けていること、ストを怖がっていることを知ったのです。

 全協オルグとの連絡
 一九三一年共産党の指導下にあった日本交通運輸労組のオルガナイザー永田耀は地下鉄の組織づくりを始めました。後に分会長になる津野勇の家を訪ね、職場の状況を聞きます。茶話会への不満から自分たちで委員を出して、目標を「スポーツ道具の購入費を会社は補助しろ」にします。同時に、うどん会ができていきます。うどん会は寄宿舎入寮者をうどんで歓迎する会が出発点です。徴兵制の軍隊から除隊したうどん好きな相良が参加していました。

バラバラな賃金
 軍隊から戻った運転手の相良の賃金は一円四〇銭が一円一五銭に下がっていました。
彼より後輩が一円三五銭と賃金は人によってバラバラだったのです。
三〇年九月の神田駅開通を目前に、浅草駅~万世橋駅往復を二五分から二〇分にする指示が出されます。そのためには、本勤務一四回を二〇回に、予備勤務十二~三回が十八回になり、労働強化です。「これでは身が持たない」と病人が続出、不満が高まっていきます。地下は日光がなく、湿気、ほこりが多く健康を害する労働者が増え、解雇も出ました。駅入り口の煙草売店には女性が十一時間労働で採用されたものの、経営がストアーに移され予告なしに解雇されました。
地下鉄争議記事
女子社員の採用、便所がない
浅草駅で地下鉄と東武鉄道が連絡する切符の販売が始まり、途中駅の小さなボックスで販売する女性社員を七人採用。労働時間は朝六時から夜十一時まで、翌日は休み。もう一人は朝九時から夜八時までの食事、休憩の交代係。「一日おきの仕事で休める」と思ったものの、ムッとした空気とガンガン響く電車の音の中、朝から夜中までの労働で体調を崩す労働者がでてきます。
さらに一日一円の給料が九〇銭しかありません。ストアーが七〇銭だから少し待ってくれとの会社の言い訳に声を出して反対はできなかったのです。便所が一つもなく松屋に駆け込み。とくに生理の時は大変でした。
 こうした職場環境の中には多くの「要求」がありました。寄宿舎にも「ガス、水道をつけて」「枕を一つずつ」「部屋を増やして」などの要求があり、室長をつくって交渉にあたり要求を順次獲得することができました。

  組合の結成
 一九三一年十二月、茶話会の役員選挙、うどん会の活動などの討議のために、津野は永田オルグと相談して、組合分会を十二名で結成します。分会責任者に津野、常任委員三人には運転手・車掌・駅員、会計など決め、共産党、共産青年同盟、赤色救援会の支持も全員で承認しています。
続いて女子分会が五人で発足、二人が地下鉄分会の常任になります。更衣室、休憩室が女子にない、一番切実な要求は便所問題です。基本的人権の問題です。売上金不足の時は弁償をしなければならない問題もあります。
職場のより多くの労働者が参加し日常活動をすすめる工場委員会の方針に沿って、地下鉄では従業員クラブを方針化します。同時に「大衆と結びつくサークル活動」を野球、映画、観劇、ピクニックにより進めました。
地下鉄大争議の始まりです。
(次号・下に続く)
【参考】 「もぐらのうた‐1932年東京地下鉄争議記録集」学習の友社一九八七年
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下町労働運動史 64

2016/12/03
下町ユニオンニュース 2016年12月号より

戦前の下町労働史 その二七   小畑精武
 
もぐらのうた・上
 東京地下鉄の争議・前史

日本最初の地下鉄は一九二七年一二月二〇日、上野と浅草間のわずか二・二キロメートルが開通しました。現場従業員はわずか五〇数名のスタートでした。
地下鉄の計画は山梨県生まれの早川徳次が同郷の根津嘉一郎(東武鉄道の創始者)の協力を得て、一九二五年九月に起工。地表から掘って切り開く開削工法ですべて人海戦術でした。
開通の半年前に、会社は根津と早川の郷里である山梨県内で労働者の募集を行い、農家の子弟三〇〇人ほどが応募、高等小学校卒業程度の試験と口頭試問により、一七~三〇歳の男性三三人が採用されます。
会社は近くに寮として普通の家を借り、五班に分けられました。初日は明治神宮を参拝し社長の話を聞きました。二日目からは、講義と実習で日給一円が支給されました。学科は七月から車両、信号、軌道、電気、運転。実習は一〇月から入り、省線(国電)蒲田車庫で朝八時から夕方五時まで運転練習を二十日間、二一日からは原町田と東神奈川の間で試運転教習をしています。車掌は実習のため省線の各線に配置されました。
もぐらのうた

十一月には地下鉄車両が入り(地下鉄はどこから地下に入るのでしょうか?)、毎日車両みがき、雑巾がけ、変電所の磨き掃除、砂利かつぎ、夜の警備巡回まで大変でした。
 開業する一二月からは上野と稲荷町間で試運転、車掌はドアエンジンの訓練。一七日には教習所の卒業式を迎え、会社規約厳守の宣誓式も行いました。給料も決まります。
 運転手 日給一円六〇銭~一円七〇銭
 車 掌 日給一円五銭~一円六銭
 募集広告より一〇銭安いことに不平が生じます。地下労働は非衛生的、過労も加わり目が見えなくなる労働者も出てきました。会社は舎監と置き「泉の花」という修養冊子を持ち込んで問題のすり替えを行いました。
 
 一日一三時間の超長時間労働
休暇は一〇日に一回、労働時間は午前出が午前六時から午後三時に残業五時間が加わり午後八時まで、午後出は午後三時から翌日の午前〇時に午前一〇時からの早出で加わり、一日一三時間の超長時間労働です。
開通の翌年一九二八年三月、運転手一二,三人が以下の嘆願書を会社に出します。
①初任給が新聞広告より一〇銭安い
②運転手、車掌共日給に差があること
③衛生設備が悪く、詰所もないこと、等
会社からの返事はありません。一二月に以下の再び嘆願書を提出。
①一〇日に一回の公休を六日に一回に
②勤務時間を六時間に(一〇時間を)
③詰所(きたない)の改善を。
④隧道(トンネル)に散水を(ホコリが多い)
⑤青服(軍服を思わせる)を撤廃し普通の詰襟に。
今回は車掌も参加、終車後寄宿舎に集まり、翌朝要求書として提出、返事がなければサボタージュに入ることを申し合わせました。

 サボタージュへ突入
翌朝、会社に要求書を提出します。しかし要領をえない返事。午後からサボタージュに突入、通常なら五分の上野―浅草間を三〇分くらいかけての運転です。会社は本社から運転できる社員を派遣してハンドルを取り上げて対抗。運転手たちは寄宿舎に引上げ籠城。会社は運転手一二人に解雇を通告。残りの七人には切り崩し攻撃がかけられ分裂状態に。
そこへ警視庁の調停官が現れ、八時間労働と残業一割増、公休八日に一日、慰労金などにより急転直下和解へ。しかし、被解雇者一二名のうち四人は復職ができず、毎日荒れる生活となり分裂状態に陥り、停滞を余儀なくされました。しかし、職場での「活動」は続き、地下鉄争議の灯が灯ります。
(次号・下に続く)
【参考】「もぐらのうた‐1932年東京地下鉄争議記録集」学習の友社一九八七年
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