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下町労働運動史 48 

2015/05/30
下町ユニオンニュース 2015年6月号より  

戦前の下町労働史 その11 小畑精武

東洋モスリンの争議①

亀戸は紡績の街だった

 「労働女塾」があった一九三〇年当時の亀戸地域は東洋モスリン(亀戸七丁目、略称洋モス)はじめ、東京モスリン(現文花団地)、日清紡(亀戸二丁目団地)など三〇〇〇人規模の大きな紡績工場がありました。一九三〇年当時深川区、大島町、砂町では女子労働者が一割程度に過ぎなかったのに対して、亀戸町では女子労働者は四割を占めていました。
「一九〇七年、亀戸七丁目に設立された東洋モスリンには、新潟、福島などから出稼ぎ女工として、小学校を卒業したばかりの少女から二〇代の若い女性たちが働きにきた。彼女たちは、会社が用意した寄宿舎に入り、一部屋十数人がいっしょの集団生活を送った。」(「江東に生きた女たち」) 
 工場の南側は千葉街道と竪川(現在は高速道路)、北側(現在は京葉道路)には都電(当時は錦糸町から西小松川までの城東電車)が通り、食べ物、着物、下駄、化粧品の店ができ、五の橋館などの映画館もありました。

 洋モス労働組合の歴史と闘い
 洋モスには三工場があり、以前から第三工場の職工一〇〇人ほどの総同盟関東紡織労組請地支部洋モス班がありました。

一九二六年三月には亀戸工場従業員が全員加盟する組合を作ろうと関東紡織労組城東支部が結成されます。その後総同盟第二次分裂をうけ二七年四月には中間派の日本労働組合同盟(組合同盟)日本紡織労組城東支部となりました。
 二七年五月、亀戸第一、第二工場では五〇二一人の労働者のうち四九五一人が参加し左記要求の待遇改善闘争が展開されました。
1、第二工場職工三名(総同盟幹部)を転勤
  させること
2、退職手当を公示すること
3、寄宿女工を自由外出させること
4、徴兵者を休職とすること(従来は退職)
5、臨時工を廃止し普通職工とすること
6、家賃手当を復活すること
7、夜業手当を支給すること(一回十銭)
 会社は要求提出後わずか一日で要求を全て認めました。

日本初の「女工外出の自由」を獲得
 拘置所のような籠の中に入れられ、自由な行動が許されなかった女子紡績労働者にとって「外出の自由」は「人権宣言」(鈴木裕子「女工と労働争議」)でした。
 こうした闘いの経験は女子労働者にとって自信となり、労働組合への信頼が増していきました。組合の威信は高まり組織も拡大をしていきます。しかし、二八年春に組合(城東第一支部)に会計問題が起こり、日本紡織労組から脱退。六月には洋モス従業員組合を結成して組合同盟に直加盟を果たしました。

 女工労働者の深夜業の禁止
翌二九年七月、午後一一時から午前五時までの深夜業が禁止されます。これも歴史的なできごとでした。日本の低賃金長時間労働が国際的に批判を受けていたことに対し日本の資本主義は「改善」を余儀なくされたのです。これに対し資本は「合理化・賃下げ・労働強化」と法が適用されない「中国への進出」で対抗してきました。
洋モスでは、深夜業禁止前一九二六年下期の職工数八八二三人が禁止後二九年上期には六八五八人と二二、三%減員しているにもかかわらず、生産のトップ出来高は一一五万六千ポンドが二二〇万五千ポンドと九〇%も増加しています。
 洋モスは同時に組合破壊をすすめ、三人の組合幹部に対して解雇、組合脱退強要、辞職強要をはかってきました。二九年六月、洋モス従業員組合は深夜業禁止による労働条件低下を見越して、定昇の年二回実施、深夜業廃止後の新手当、月収入の保証などの要求を提出します。
【参考】▼江東区女性史編集委員会「江東に生きた女たち‐水彩のまちの近代」一九九九
    ▼鈴木裕子「女工と労働争議」れんが書新社一九八九
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下町労働運動史 (46) 戦前の下町労働史 その九

2015/03/26
下町ユニオンニュース 2015年4月号より             小畑精武

下町の朝鮮人労働者

急増した朝鮮人人口 
「荒川放水路建設と朝鮮人虐殺」について二七号に書きました。関東大震災では六〇〇〇人もの朝鮮人が虐殺されました。しかし、その後震災復興事業がすすむなかで朝鮮人人口は下町で急増します。就業先は定着性の強い工場ではなく、流動的な不熟練労働者、土木建築関係労働者が増加したのです。全国的にも在日朝鮮人は一九二〇年の三万〇一四九人が、三〇年にはほぼ十倍の二九万八〇九一人、一九四〇年には一一九万〇四四四人と四〇倍にも膨れ上がっていきます。
 地域的には、隅田川下流、芝浦一体であり、本所、深川、南葛飾郡、北豊島北部、荏原郡でした。これらの地域は関東大震災による人口流出が激しく、居住条件も劣悪でした。日本人と朝鮮人との間が隔てられ「摩擦を生まない居住空間」がつくられていきます。
 江戸川、葛飾、足立など周辺郡部が区制になった(三二年)後の一九三七年でも、朝鮮人人口は絶対数で深川区(五〇六七人)、荒川区(四一七九人)、本所区(四〇三九人)、城東区(三六二二人)、人口比率でも深川区(二、三七%)城東区(二、一二%)向島区(一.五四%)本所区(一、四五%)と下町四区が上位を占めています。               仕事は、製造業では、男子がガラス職工、女子は紡績工などで日本人労働者の募集が困難で、低賃金、高熱、長時間労働に限られました。多くは土木工事で、とくに道路工事用労働者が多かったようです。南葛労働会事務所があった本所太平町には相愛会という労働者保護の寄宿舎があり五二五人もの日雇いの人夫が宿泊していました。
 
 「労働者保護団体」による集団的就職
 朝鮮人労働者は、同郷の先輩を頼っての就職とともに相愛会、一善労働会、野方汗愛寮、在日本朝鮮労働一心会など「労働者保護団体」を頼る場合も多かったようです。保護団体は「日鮮融和」「朝鮮人労働者保護」をうたっていました。これらの団体を通しての就職は独身者51.3%、世帯員45.3%、知人友人親戚の紹介が22.2%と21.5%であるのに対して、公的職業紹介所は1.5%と2.5%と就職率の低いのが目立ちます。ただし、この調査が保護団体を通してのものであるため、疑問視もされています。また「労働者保護団体」は今日の「技能実習生受入れ団体」と似ています。歴史は繰り返すのでしょうか?


衆議院議員になった朝鮮人

201504労働運動史
「日鮮融和」をうたった相愛会は関東大震災後官僚や財界からの支援もあって、勢力を伸ばし二万人ほどの組織になります。代表的な相愛会は職業紹介とともに、太平町の寄宿舎など無料宿泊施設を経営。副会長朴春琴(写真)は三二年と三七年に東京四区(本所区、深川区)選出の帝国議会議員になっています。一九〇六年に来日し、土木作業員から手配師となり、清水組や熊谷組の仕事を請負ました。二〇年に相愛会の前身、相救会を結成、二一年に相愛会に改組し副会長となり、関東大震災の死体処理、焼け跡整理をします。三二年衆議院に初当選し二期務めますが、大政翼賛選挙では敗北します。親分肌で面倒見がよかったことから日本人にも人気が高かったそうです。戦後は親日派民族反逆者として指名されます。当時は「内地居住」の男子であれば朝鮮人、台湾人でも日本人と同様に選挙権、被選挙権を有していたのです。

東京朝鮮労働同盟会の結成
一九二二年に東京朝鮮労働同盟会が結成され、一九二五年には「在日本朝鮮労働総同盟」が八時間労働制、最低賃金制度確立などを掲げ東京で結成されます。神奈川、大阪などでは朝鮮人労働者の争議が闘われました。下町では、皮革産業労働者の東京合同労組で在日朝鮮人運動の指導者であった金浩永が活動していました。
【参考】松本俊郎「震災復興期の東京府下朝鮮人労働者に関する人口・職業分析」岡山大学経済学雑誌、一九八五年
   外村 大「帝都東京の在日朝鮮人と被差別部落民」(部落解放研究 No一七一、二〇〇六年八月)
   ウィーキペディア 「朴春琴」
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下町労働運動史41 戦前の下町労働史 その4

2014/10/30
下町ユニオンニュース 2014年11月号より
                                                   小畑精武

女性たちの闘い
 すでに何回かにわたって女性労働者の闘いを紹介してきました。東京モスリンで深夜労働のなか闘った山内みなについて十一、十二号でふれました。彼女はその後大阪にいって運動を継続します。一九二五年には東洋紡三軒家工場(約3千人)で総同盟と評議会の組合共同闘争が展開され、評議会の大阪紡織染色労組の婦人部長(執行委員)として争議団と指導部のアジトの連絡係を担いました。
 要求は、①運送部員に工場法適用を、②寄宿女工の外出を自由に、③女工の強制送金制度の廃止、④浴場の改善、⑤年二回の定期昇給など切実な要求でした。
その後彼女にも逮捕状が出て東京へ逃げていきます。東京では保険の外交員、髪結いの修業、労農党の仕事をします。

婦人同盟創立めぐって論争
 評議会の第二回大会(一九二六年四月)で「総本部に婦人部を設ける件」が討論され「賃金が安いのは婦人なるが故ではなく経済的負担が軽いから、性的差別は経済闘争の課題ではない」と設置反対論がでました。しかし、婦人同盟の創立に向けて「全国三千万の女性に訴える」のアピールが一九二七年二月に発せられました。そうしたなかから、七月に関東婦人同盟が結成され、労農党の大山郁夫委員長が祝辞を述べています。

大島町ぐるみで工場閉鎖反対の闘い
 婦人同盟はこの頃下町で闘われた女性労働者の争議に支援活動を行います。一九二七年六月に南千住(現足立区)花木ゴム工場で七〇人の女性労働者が、賃上げ一割五分、労働時間一時間短縮、年二回昇給の要求を出しました。ビラや交替で応援に行ったそうです。
 大島(現江東区)にあった富士ガス紡小名木川工場では、機械設備の老朽化を理由とした工場閉鎖を会社が突然提案。一〇〇〇人の女性労働者が工場閉鎖反対に立ち上がります。工場閉鎖は大島町民の生活にもかかわる問題で町民も工場閉鎖に反対し、町ぐるみの反対運動に広がっていきました。関東婦人同盟も争議支援の先頭に立って闘い、七月には本所セツルメントで演説会を開いてます。
 さらに、この夏には先月に紹介した失業手当、健康保険、最低賃金法、八時間労働制など「五法律獲得」闘争が闘われます。

 東京モスリンの闘い
 東京モスリン(後に出て来る東洋モスリンとは別会社)亀戸工場の一二〇〇人の女性労働者が会社に要求し、「強制貯金七割(当時会社は親のご機嫌をとるために賃金の七割を労働者の郷里に送金していた)を四割に」「賃上げ一割五分」「託児所の保母増員」「衛生設備改善」を勝ち取っています。この闘いも評議会と婦人同盟は共同して支援をすすめました。「婦人労働者の日常生活の中から生まれてくるものを政治的に高めてゆくのが任務であるはずだと私たちは考えて出かけて行ったのでした。」(山内みな)

 洋モス争議前段、初の「外出の自由」獲得
 一九三〇年の東洋モスリン(現下町ユニオンから東側)の大争議を闘う主体はすでに工場内に芽生えていました。亀戸第三工場の職工一〇〇人ほどは以前から総同盟の組合をつくっていました。一九二六年三月には亀戸工場従業員全員が加入できる組合として関東紡織労組城東支部が結成されます。
 翌年二七年四月には総同盟第二次分裂により中間派の日本労働組合同盟日本棒紡織労組城東支部になり、五月には待遇改善を要求し四九五一人が参加、翌日には七項目の要求すべてを認めさせました。その中には日本ではじめての「外出の自由」も含まれていました。
【参考】「山内みな自伝-十二歳の紡績女工からの生涯」(山内みな、新宿書房、一九七五年)「女工と労働争議‐一九三〇年洋モス争議」(鈴木裕子、れんが書房新社、一九八九)

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下町労働運動史(33) 大正時代の下町労働史 その25

2014/03/02
下町ユニオンニュース 2014年3月号より

大正時代の下町労働史 25 
小畑精武

現実主義への方向転換と左派
関東大震災直後の労働運動は転換期を迎えます。大杉栄が殺害されアナーキズム、サンジカリズムが後退していきます。他方、総同盟は主流の社会民主主義派と左派の共産主義派との分裂へ向かいました。
総同盟鈴木文治会長は「労働組合は大衆に基礎を置くべきだ。社会改造については公正なる意見を有する識者の与論の首肯すべきものでなければならない」と「方向転換」を訴えます。総同盟第一三年度大会の宣言草案には「従来の観念的運動は、明らかに誤り。現実的利益を擁護しつつ、終局の目的に向かって進むべきものである」とあります。左派は「方向転換というよりも、過去の闘争を打ち捨てて、支配階級の前に屈する」と憤慨。修正案がつくられます。修正案は「労働運動は少数者の運動から転じて、大衆的運動に向かうべき一段階に到達し、改良的政策にたいする従来の消極的態度は、積極的にこれを利用することに改めねばならぬ。」と妥協の産物となり、満場の拍手で方向転換宣言を可決しました。背景には亀戸事件から普通選挙実施、ILOへの代表派遣、労働組合法制定、治安維持法への動きなど関東大震災後の社会変化がありました。

関東大震災前後の労組組織率
     組合数  組合員数  組織率
1921年  300   103,412  -
1922年  387   137,381  5.3%
1923年  432   125,551  5.6%
1924年  469   228,279  6.0%
1925年  457   254,262  6.5%

この間、労働者の生活は厳しさを増し、労働組合組織は着実に伸びていきました。
 総同盟は二五年の大会で決定的な分裂に至ります。その前の二四年一〇月の関東労働同盟大会で左右対立が激化し、右派主流派は役員独占をねらいました。議長の横暴不公平を糾弾した渡辺政之輔(労働者出身でやがて共産党委員長になる)にひき入れられた左派四組合(東部合同、関東印刷、横浜合同、時計工組合)が退場します。同時に理事会は渡辺たち六人の除名を決議。しかし本部の調整が入り、四組合は本部直属とし一二月に総同盟関東地方評議会(会長東部合同、藤沼栄四郎)を創設します。

東京合同労組の設立 本部は本所太平町
一九二五年(大正一四年)三月一二日、渡辺政之輔の東京東部合同労組に北部合同、南部合同平塚支部が加盟し、東京合同労組となります。さらに西部合同労組が加盟。組合員は東部合同五八〇人、北部合同二二〇人、西部合同が一〇〇人と一〇〇〇人近い組合員に拡大します。組合活動が自由な今日とさほど変わらない勢力に発展していきました。本部は東京東部合同労組の事務所。今の錦糸町オリナスの交差点に近い本所区太平町二‐二〇三でした。
東京合同労組は青年部の設置を決議するとともに、以下の八専門部を設けます。

①組織部 ②争議部 ③政治部 ④調査部 ⑤教育部 ⑥出版部 ⑦会計部 ⑧婦人部 

さらに、組織方針として渡辺政之輔は「自主的工場委員会」運動を提起します。しかし分裂後に結成された評議会の大会で否決されてしまいます。労働組合が工場の外に支部が組織され工場には分会が組織されるのに対して、工場委員会は一工場における労働条件に労働者の注意を向けるものです。将来は工場の産業的管理を準備し、訓練することを目的としました。
労働組合運動の分裂は普通選挙をめぐっても意見が分かれ、共産主義勢力は治安維持法で徹底的に解体へ追い込まれます。しかし、労働者の運動は右派においても戦闘性を維持して展開され、昭和期へと入っていきます。労働組合法もなく、労働組合活動が不自由な大正期においても、関東大震災後も着実に組合員は増加していきました。

【参考】
 「渡辺政之輔とその時代」
(加藤文三、学習の友社、二〇一〇年
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下町労働運動史 (31) 大正時代の下町労働史 その23

2013/12/31
下町ユニオンニュース 2014年1月号より

小畑 精武
  
大震災後の労働運動 23
 
ボルとアナ 労働戦線の分裂へ
すでに震災前から、労働戦線はアナ・ボル論争が展開されていました。明治時代にはアナーキズム(無政府主義)が力を持ってストライキなど直接行動を展開。関東大震災の時に、官憲は亀戸に居を構え活動したアナーキストの中心人物、大杉栄を殺害したのです。
ボルはロシア共産党になるボルシェビキを支持する派で、一九一七年のロシア社会主義革命に影響され、一九二二年堺利彦が書記長となり日本共産党を結党します。ボル派は総同盟の中で活動をしていました。
下町では、一九二三年五月から七月にかけてアナーキスト系の機械労働組合連合会とボルシェビキ系の南葛労働会渡辺政之輔が関わる争議がおこっています。

汽車製造会社東京支店争議
汽車会社は鉄道車両を製造し、本社が大阪。本所区錦糸町と深川区東平井町に工場がありました。両方で男子九三八人、女子四一人が働いていました。世間的には不況でしたが汽車会社は隆盛でした。

下町労働運動史31汽車会社の製造版汽車会社の製造版 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:JNR233-MakerPlate.jpg 汽車会社の工場は現在の錦糸町楽天地にあった。



そこには労働組合が二つあり、主流の革新会(七八〇人)はアナーキスト系機械労働組合連合会に所属、もう一つの誠睦会(一二六人)は穏健で会社と協調的でした。渡辺政之輔が支持した組合は、アナーキスト系からは会社との協調派とみられていたのです。(びっくりですね!)しかし、アナーキスト系の直接行動はスト至上、暴力的で一揆に似ていました。この争議での「過激派」は共産主義を唱えるボルシェビキ派はではなく、アナーキスト系だったのです。

ボル派は統一を志向
二三年二月に革新会は解散して誠睦会と統一し、関東車両工組合を創立してアナ系の機械労働組合連合会に加盟することをすすめていました。しかし合併を決める五月一九日の誠睦会の総会時に関東車両工組合が乱入。さらに「御用組合」誠睦会幹部二人を排斥すべきと二二日会社に申し入れたのです。会社は職工相互間の問題として拒否します。
これに対し、車両工組合幹部は怠業(サボタージュ)をすべきと職場を退出。深川工場の労働者は車両工組合のやり方は問題があると怠業に不参加。二四日いったん車両工組合は職場復帰。しかし、二五日正午休憩時に排斥目標の幹部三人に暴行を加えようとしましたが、会社は三人を事務所に保護し、さらに関東車両工組合幹部一七人の解雇を告げます。これに対して車両工組合は大島労働会館を争議本部として、二八日から同盟罷業(ストライキ)に入ります。
自転車による組合員宅戸別訪問や行商などを展開しますが、会社は強硬姿勢を取り続けます。六月中旬より戦線を離脱し就業する組合員が徐々に増加していきました。

アナ系争議の敗北
誠睦会は総同盟系の関東鉄工組合に加入し、二一日本所支部を設立。紛争は総同盟対機械労働組合連合会の様相を示してきます。
南葛労働会の渡辺政之輔は、すでに一七日に誠睦会の幹部と関東車両工組合の有志から合同への尽力を依頼されていました。誠睦会の一三〇人はすでに南葛労働会に所属していたのです。同一工場に二つの労働組合は必要ないとの立場でしたが、車両工組合のストライキに対して誠睦会は会社に出勤し仕事を継続。渡辺は六月に共産党弾圧で検挙されますが南葛会の指導は続きました。
結局、アナーキスト系の車両工組合は「刀尽き矢折れ」ました。二カ月に及ぶ争議は突如七月十一日に争議打ち切り無条件就業の宣告が出され終わったのです。
この争議について関東鉄工組合本所支部(旧誠睦会)はビラで車両工組合の背後の機械労組連合会に責任があるとし、逆に、車両工組合と機械労働組合連合会は南葛労働会を罷工(ストライキ)の「裏切り者」を援助したと「休戦宣告」で批判しています。
【参考】「大正十二年労働運動概況」(社会局第一部、明治文献版、一九七一年)




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